道というものを考えてみるのに、この世に果たして真っ直ぐな道がどれだけあるのかと思います。川の流れのように曲がりくねったものが本来の道であって、山から直線で川が海に流れることはありません。その曲がりくねった中に、色々な出会いが出来事があり緩急あり、時には落差ありと水が流れて海にたどり着きます。
そのたどり着いた水は、海で蒸発し雲になりまた山から流れる。
この繰り返しが自然循環であり、また同様に人間の人生も川のように生まれ変わっては出会いが出来事のご縁に結ばれていきます。
そうやって直線ではないと気づくのなら、人生は道草をしている方が仕合せではないかとさえ思います。身近にある夢や目標を追い続けるあまり、道を直線にしてしまっているのかもしれません。もしも道が直線と思い込むのなら、急いで焦って目的地にたどり着こうとするのでしょう。しかし先ほどの川のように、山から直線でいきなり海ならその川の流れを楽しむこともなく、その間にある真善美に触れ豊かさを味わうゆとりもなくなります。
そもそも道は曲がりくねっているものであり、流されながら流されないように自分をしっかりと持って歩むことこそが道草の醍醐味なのでしょう。
大分の麦焼酎、二階堂のテレビCMにこういうものがあります。
「近道は遠回り。
急ぐほどに
足をとられる。
始まりと終わりを
直線で結べない道が
この世にはあります。
迷った道が、私の道です。」
この迷った道が私の道というのは深い味わいがあります。
何度も何度も壁にぶち当たりながら頑固でプライドの高く、自分勝手な自分を削り落として素直にしていく。その繰り返しの中で、人生で大切なものを学んでいくということ。こういうことを繰り返していく中で、自分の道に気づいていきます。道に気づくときは常に直線の時ではなく、遠回りして道草をするときに出会うものです。
今を生き切るというのは、この遠回りをする余裕を持つことであり、どんな人生であったとしても日々に全身全霊に一期一会に学び直していくことのように思います。
思い通りでなかった時のことの方が、思った以上の幸運に恵まれていると感じることが人生の妙味に気づくコツのように思います。遠回りこそ近道、道草こそ最短距離と生き方を変えていく中で、深い味わいを持てる人生になるのでしょう。
子どもたちのためにも、自分の生き方を見つめ道を楽しく豊かに朗らかに歩んでいきたいと思います。
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進学、就職、先ばかりを考え、考えれば考えるほどに不安になる。そんなことを思い出しました。大事なことではありますが、今というときはすっかり目の前からなくなり、最短距離は時に魅力的に見えますが、一緒にスタートしていても果たして今どの地点にいるかはわかりません。これまでやってきたことが自分の自信になる、そういう歩みを大事にしていきたいと思います。
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「道を決めて歩く」のは目的地があるからですが、そもそも人生には目的地はなく、「歩くことが目的」でしょう。それも、歩いた道を振り返ってみて初めて「自分の道」に気づくものです。人生には、必要があって通らないといけない道があります。「近道」という発想自体が、人生の怠け心の現われであり、結果主義人生、効率主義人生の現われではないでしょうか。
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理念取材に同行させてもらう中で感じるのは、何をどうするという目的地や経由地ではなく、理念とは歩み方、生き方であることを感じます。その違いは、保育でも、発達の保障に対しても、目的地や経由地に行くことを大切にする場合と歩み方や生き方を大切にする場合とでは大きく変わってくるのだと感じます。そしてそれは、クルーや家族、友人との関わりでも同じなのかもしれません。相手を裁かず、変えよう、分からせようと躍起にならず、聴いて共感し受け入れていく生き方。簡単ではありませんが、大切にして生きたいと思います。
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なんでも人間が創り出していると錯覚すれば、人の道ですら人間都合になると勘違いし、そこから外れたものは全てダメだと苦しむのかもしれません。道草という言葉は何か懐かしい感じがして、子どもの頃は予期せぬことの方がむしろワクワクとして楽しかったようにも思います。どのような道でも味わって歩むことを大事にしていきたいと思います。