天神祭の準備を進めていますが、孔子と菅原道真公の生き様と生き方に共通点が多いことを感じます。共に憧れの君子に向かって学問を求道し、子孫たちへ人類の目指す理想に向けての光を照らし今でも私たちを見守ってくれている存在になっています。
孔子は中国の人物ですが、論語を通して私たちはその教えを血肉にしてきました。日本人というのは、「和」という言葉にあるように、他を排斥せず、他を鵜呑みにせず、他を尊重して混ぜ合わせ渾然一体にして文化と溶け込ませていく民族でもあります。
澄んだ水に、あらゆるものが溶け込み受け入れるようにその寛容で素直な精神が私たちの根底を支えています。自然のようにゆったりと悠久の流れの中で、自ずから最適化していくようにお互いの持ち味を活かしあい和合するのが私たちの文化の原点です。
そもそも風土で醸成されたものは、その風土が象ったものですからその風土の適性を帯びています。それが別の風土に移動するとき、その風土に適した人物や存在が新しく顕れ、古いものが甦ります。
こうやって自然は、何度でも甦りを繰り返し、その風土の時の流れと一体になって生き続けていくのです。教えや智慧もこの自然の仕組みがあり、ただ外からそのままになって入ってきたものは風化しますから風化しないように日々に手入れを行い、時々に生まれ変わり新鮮さを維持し続けていくのです。
私たちは同様に、日々に増えていく文化や文明に対してそれを温故知新し続けていくことで本来の姿をいつまでも守り続けていきます。それを伝統といいますが、それを伝承するためには時代の変遷の中で何度も原点回帰を続けて和製にしていく必要があるのです。
言い換えるのなら、その時代時代の通訳者が必要になるということです。何が本質かというのは、その時代に生きる人が翻訳し通訳しなければなりません。そして本物のであり続けるために、その意味の解釈が正しくできなければなりません。
目指す生き方が同じである人が、時代時代に顕れ、同様に自分の人生で体験したものをその時代の人たちに示していくから受け継がれていくのです。
天神様は、人物が神様になったものです。
これはどのような生き方を目指したか、その生き方の先に神様が在るということです。ここの神様の神は「カミ」のことで本来、日本人は宗教とかどうこう分別する前に、太古から暮らしを通して息づいている自然の存在をカミとしその道から離れないように生きていこうとした民族です。
だからこそそうやって生きた存在をカミとして称え祀り、その生き方を模範にしていこうと祈り継承し続けてきたように私は思います。
天神様は、学問のカミですから何のために学問をするのかをその存在から私たちは気づかせていただけるように思います。
引き続き、子どもたちのためにもこの時代のかんながらの道を伝承する民族の独りとして実践しながら伝え遺していきたいと思います。
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「通訳」「翻訳」をするには、言葉を知っているだけではダメでしょう。その背景にある価値観や生き方を理解する必要があります。「時代間の通訳」をするときも同じです。過去の日本人の考え方と暮らしを理解するとともに、現在の時代も理解しておく必要があります。形は変わっても「意味をちゃんと伝えられる」通訳者になりたいものです。
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論語の一文を日々書き写しながら、要所要所弟子とのやりとりから人となりを感じるものはあっていましたが、どんな社会を目指していたのかは見ていませんでした。ページを開くごとにその時の自分を言い当てられているような感覚はあっていましたが、枝葉ではなく目指したものをもっと見て、机上ではない学問を追究していかなければと感じます。
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先生という言葉は字義としては「先に生まれた」というものですが、その意味は「真理に先に目覚めた」という意味での「先・生」だったと言われます。ここからも本来の学問がどのようなものだったのかを窺い知れますが、現実においてはまだまだ教育による刷り込みが残っているように感じます。今週も様々な機会を頂きましたが、見えるもの・やること以上に本質の方を追求していきたいと思います。
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カミと触れ、カミから学ぶには自らの魂が主体的でなければ、知識で止まるように感じます。結局のところ、自分らしく生きているかどうか、自分の声を聴いているかどうか、我欲が見えているかどうかだと今は感じます。自他にあるカミを見つめたいと思います。