昨日からお盆に向けて、いつも見守て下さるご先祖様を迎え入れる準備をはじめています。よくお掃除をしてお供え物や迎え火、送り火の準備、そのほか様々なことを整えてこの期間を心静かに過ごします。
そもそもこのお盆とは何か、少し深めてみようと思います。
お盆という行事が最初に日本で行われたのは推古天皇の時代、606年だといわれます。日本古来の祖霊信仰とインドから入ってきた仏教が和合し、このお盆という行事が私たちの暮らしに定着しました。
このお盆は旧盆というものがあり、旧暦の7月13日から4日間ほど行われていました。しかし、その時期はちょうど農繁期で忙しくそれを遅らせようと明治以降からこの8月13日からの4日間をお盆の期間としたそうです。なのでこの時期は、月遅れの盆といいます。先日参加した京都の祇園祭は、旧暦のお盆と同時期に行われていましたから明治以降に暦が変わり行事の時期も変化したのが改めてわかります。
本来、行事の日程というのは古来よりその日でなければ風土や気候、自然との関係が薄れることから簡単に日程の変更はしてはならないものなのですが現代ではその辺の日時も珍紛漢紛になっているものが多く意味も薄れていっているようにも思います。
ご先祖様が故郷に帰ってきてくださる時期をこちらの都合で遅らせてもらうというのも微妙な気もしますが、どちらにしてもご先祖様への感謝の行事として私たちはこの時期はご先祖様の存在を身近に感じることができるように思います。
もともと「お盆」という呼び名は、インドで発祥した仏教の経典を中国の竺法護が訳した『盂蘭盆経』に由来する「盂蘭盆」が省略された言葉です。その盂蘭盆経にはこう読まれます。
『釈迦様が祇園精舎におられたときに、目連が初めて六神通を得て亡き父母に何かできないかと思った。その霊視力をもって世間を探した所、亡き母を餓鬼たちの中にみつけた。飲食も取れず骨と皮で立っていた。目連は悲しみ、すぐ鉢に御飯を盛って母のもとへ持っていった。母は御飯を得て、左手で鉢を支え右手で御飯を食べようとしたが口に入れる前に炭に変ってしまい食べることはできない。目連は大いに泣き叫び、釈迦様の所に帰って、このことを報告した。
お釈迦様は言うことには、あなたはお母さんの罪は重かったようだ。あなた一人の力ではどうにもできない。あなたの孝順の声が天地を動かし天や地の神々、邪魔や外道・道士に四天王まで動かしてもどうにもならない。まさに十方の修行している僧の力が集まれば解脱することができるだろう。これから救済の方法を教えよう。それですべての苦しみや憂いも消えるだろう。
お釈迦様は目連にこう言った。十方の衆僧が、七月十五日、「僧自恣」の日、まさに七世の祖先から現在の父母まで、厄難中者のためにつぎの物をお供えしなさい。御飯、多くのおかずと果物、水入れ、香油、燭台、敷物、寝具。世の甘美を尽くして盆中に分け、十方の大徳・衆僧を供養しなさい。この日、全ての修行者は或いは山間にあって禅定し或いは四道を得、或いは木の下で歩き経を上げ、或いは六種の神通力で 声聞や縁覚を教化し、或いは十地の菩薩が大人になり、神になり比丘になって大衆の中にあるのも、みな同じ心で、この御飯を頂けば清浄戒を守って修行する人たちのその徳は大きいだろう。これらの供養を「僧自恣」の日に父母も先祖も親族も三途の苦しみを出ることができて時に応じて解脱し、衣食に困らない。まだ父母が生きている人は、百年の福楽が与えられるだろう。もう既に亡い時も七世の祖先まで天に生じ自在天に生まれ変わって天の華光に入り、たくさんの快楽を受けられるだろう。
その時お釈迦様は十方の衆僧に命じた。まず施主の家のために呪願して七世の祖先の幸せを祈り坐禅をして心を定めしかる後に御飯をたべよ。初めて御飯をたべる時はまずその家の霊前に座ってみんなで祈願をしてから御飯をたべなさい。その時目連や集まった修行者たち皆大いに法悦に包まれ目連の泣き声もいつしか消えていた。
目連尊者の母は、この日をもって気の遠くなるような長い餓鬼の苦しみから救われ得た。目連はまたお釈迦様に言った。将来の全ての仏弟子も私を生んでくれた父母は、仏法僧の功徳をこうむることができた。衆僧の威神力のお陰である。将来の全ての仏弟子もこの盂蘭盆を奉じて父母から七世の先祖までを救うことができる。そのように願って果たされるでしょうか。
お釈迦様は答えて言う。
いい質問だ。今私が言おうと思ってたことを聞いてくれた。善男子よ、もし僧、尼、国王、皇太子、大臣、補佐官、長官、多くの役人、多くの民衆が慈悲、孝行をしようとするなら皆まさに生んでくれた父母から七世の祖先までの為、七月十五日の仏歓喜の日、僧自恣の日において多くの飲食物を用意して盂蘭盆中に安じ十方の僧に施して、祈願してもらいなさい。現在の父母の寿命が伸びて病気も無く一切の苦悩やわずらいも無くまた七世までの祖先は餓鬼の苦しみから離れ天人の中に生まれて福楽が大いにある。
お釈迦様は善男善女たちに告げて言った。
この仏弟子で孝順なる者はまさに念念の中に常に父母を思い七世の父母までを供養しなさい。毎年七月十五日に常に孝順の慈をもって両親から七世の祖先までを思い盂蘭盆を用意して仏や僧に施して、父母の長養慈愛の恩に報いなさい。もし一切の仏弟子とならばまさにこの法を奉持しなさい。この時目連、男女の出家・在家はお釈迦様の話に歓喜し奉行した。』
このように仏陀の説いたものが盂蘭盆経の中に記されています。
どんな意味があってこのお盆という行事が生まれ、何が起点になっているのか、古来を深めるということは先祖につながるということです。
引き続き子どもたちのためにも、お盆の行事を学び直してご先祖様との邂逅を味わっていきたいと思います。
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子ども頃、祖父母の家に親族が集まり従兄弟と遊ぶのも楽しみの一つでした。迎え火も送り火も意味は分からずも、くっついて歩いていた記憶があります。あの頃は、日にちも何も意識していなかったですが、古民家との関係が増しご先祖様あっての今の自分であることを以前よりも感じています。ご先祖様、親族へも家族が集まる機会だからこそ、感謝を伝えることを大切にしたいと思います。
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「自分の親や先祖が、どのような世界に帰っているか」を知ることは、供養の問題というよりは、いま、自分たちがどのような心境の高さで生きているか?!ということを問うことになるでしょう。「廻向」するには、生きている私たちが徳を積み、己を高めることが最高の道になるのではないでしょうか。
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子どもの頃から全く宗教観のなかった我が家ではお盆というものもあってなかったようなものでした。時代背景もあり分断されたり薄れ消えてしまったものも多くあると思いますが、だからこそもう一度その意味を取り戻そうとする動きが行事に限らず色々な面で見られます。今の時代だからこそ何を願い遺していこうとするのか、しっかりと定めていきたいと思います。
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お墓を掃除したり、精霊棚に準備をしているとこちら側が清められていくように感じます。それは昔の方々のご先祖様に対する感謝の心の深さが準備一つ一つに込められているからだと感じます。お盆の準備をし、お盆を迎えることは大切な文化であることを新ためて今年は感じています。一年一年、お盆を深め、大事にしていきたいと思います。