毎年、夏になると私はいつも仏陀の教えや観音菩薩のことを深めるご縁が多かったように思います。夏の厳しい暑さと強い日差し、お地蔵さんの線香の薫り、また蝉の鳴き声を聴けば無常さを感じることが多いからかもしれません。
私は幼いころから、近所にあるお地蔵さんがとても好きでいつもお参りしていました。大人になった今でも、そのころの初心や習慣は失われずいつも心が其処に向かい気が付くと足を運んで拝んでいます。拝むという心は、自分以外の観えない存在を身近に感じる一つの仕組みのようにも思います。
毎日、拝んでいると当たり前ではないことや御蔭様に助けていただいていること、また有難い恩恵をたくさんいただいていることなどを実感して日々の過ごし方や受け取り方が変化していきます。日々は小さな実践かもしれませんが、今の自分を形成し心を成形してくださっている基礎になっています。
大人になって私が仏教で最初に感動したのは、観音信仰との出会いです。日本では飛鳥時代より観音信仰が弘がり、時代地域を問わずに今でも観音様として人々に親しまれています。
観音様の徳は、救うべき相手に応じて仏身から王や龍や夜叉にもなり、三十三種類の姿に変えてまで衆生を救う『観音の三十三身』の方便力を持つといいます。この三十三は、無限の数でもあります。そこから千手千眼観音様も顕現してきて、ありとあらゆる姿とありとらゆる方法で人々を救う菩薩と信じられました。その徳はまるで水の徳であり、水がすべてを受け容れてあらゆるものに形を変えていのちを救っていく姿と重なっているかのように思います。
日本は水が豊富で、あらゆるところに水が湧きます。その湧水の傍には観音霊場が多いのも、水の徳と観音様を合わせて拝んでいたからかもしれません。
観音様の教えに六波羅蜜というものがあります。これは人間は、その宿命として六道というものを歩むことになります。これは天上道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道といって、それぞれに苦しみの道があるといわれます。例えば、修羅道はいつも誰かと争いをしている世界、畜生道は理性を失っている世界、餓鬼道は飢えで苦しんでいる世界などそれぞれの苦道があります。これを六道輪廻といい、それを潤繰りを巡りながら私たちは日常を過ごしているとも言えます。これらの欲の渇きを潤すためにさらに罪を重ねていくのが人間の業ですから、これを砥石にどのように人格を磨いていけばいいかが私たちが問われている課題でもあります。
山伏が六根清浄といいながら山を歩き修行をするのは、この六道の渇きを清め給えといいながら歩んでいるともいえます。この六道から救ってくださるのが観音菩薩の徳であり、どのような清めと浄化の実践が最も効果があるのかを六波羅蜜の中で教えてくれます。
そこには布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧、という実践を行うことで磨くようにと書かれます。つまり布施は、文字通り奪うよりも与える生き方を、持戒は、自ら決めた戒めを守ること、そして禅定は精神を乱さず平常心を保つこと、智慧は自然の法則を学ぶこと、忍辱は耐え忍ぶこと、そして精進は慢心せずに継続努力を怠らないことなどがあります。
例えば、現在が天上道であれば精進を実践し、現在が人間道であれば智慧を実践し、現在が修羅道であれば持戒を実践し、現在が餓鬼道であれば布施を実践し、現在が畜生道であれば禅定を実践し、現在が地獄道であれば忍辱を実践する。つまり修行というものはこれらの苦道の中で何を行うか、つまり実践のことを言います。
その修行を見守ってくださっているから一緒にやりましょうというのが観音様の存在のように私は思います。どうにもならないけれど一緒に歩んでくれる人があるという思いやりや真心は、そのこと自体が苦を和らげ道を楽しくしてくれます。
業から逃げるのではなく、業を避けるのではなく、その業をどう味わっていくか、ここに人間の一生の妙味もまたあるように感じます。引き続き、実践が多く実践ばかりと辟易されることもありますが一緒に歩んでいる仲間がいることを伝え、また菩薩のように先に歩むだけではなく一緒に歩んで導いていこうといった思いやりに生きる姿をお地蔵さんから学んだからこそその教えを実体験をもって伝承していきたいと思います。
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随分と昔のことになりますが、仕事にも人間関係にも行き詰ったとき、四国のあるお寺にしばらく籠ったことがあります。来る日も来る日も作務をし、山頂で座禅を組み、写経を続けました。「周りがすべて敵に見えているお前にはこれがよかろう」ということで、毎日写したのか「観音経」でした。お陰さまで、何とか復活でき、その後もずっと見守っていただいているようです。
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お地蔵さんのあの笑みを見ると自然とこちらも和むものがあります。初めてお地蔵さんというのを知ったのは、日本昔話の笠地蔵を観てだったかと思います。普段、住宅街に住んでいると見かけることはなく、母の実家へ行くと近くにお地蔵さんがおり、久しぶりに会う友達のように会いに行っていました。あの微笑で子どもたちをいつも見守っていると思うと、自分もお地蔵さんのように笑って子どもたちを見守っていきたいと思います。
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修行として酒断ちをしていましたが、お盆の間に守ることが出来ませんでした。家族は一緒に飲み交わせる喜びに顔を微笑ませていましたが、家族を理由に修行をやめることは罪深いことであり、本来は自分自身の問題であり、天が決めることなのかもしれません。この数年に修行した分は意味があったかもしれませんが、我慢をする修行という感覚では継続も難しいかもしれません。業と向き合う。また新たに自分と向き合うタイミングが来たようです。
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以前、夏季実践休暇中に新潟の毘沙門堂の奥にある三十三観音巡りを行ったことが思い出され、水の清らかな南魚沼という地にあったのも何か特別な意味があったのかもしれません。巡る道中も勿論ではありますが、それは始まりでもあり、そこからが本当に自らが試されているようにも思えます。第二の故郷と呼べるようになってきた、あの地に残る日本の原風景を探求していきたいと思います。