先日、私たちがいつもお世話になっている園長先生に聴福庵に来庵いただき泊まっていただく機会がありました。その方々はとても感受性が豊かで、懐かしいものを愛し、子どもたちの心のふるさとにしたいとそれぞれの園を真心で運営なさっておられます。私も何回も訪問させていただきましたが、子どもたちの姿が落ち着いており職場の雰囲気も明るく楽しい安らぎの和の環境が醸成されていました。
日本という国は、そもそも「和」というものを尊んできた歴史があります。それぞれの持ち味を尊重し協力して共に暮らしていこうとする生き方です。その持ち味を尊重するには、同じ方向を向いている必要があります。向かう方向がバラバラであれば、それでは持ち味は出てきませんし活かせません。
この持ち味というものは、前提として和の環境があり、全体丸ごとの状態の中で個のそれぞれの持ち味が発揮して出てくるものですから個になったり自分勝手にやっては決して持ち味にはなりません。
だからこそそれぞれがどこを向いて生きているか、何を大切にして生きていくかはとても重要なことになってきます。このどこを向いて生きているか、それはつまり言い換えれば「信仰のかたち」とも言えます。この信仰というのは現代では宗教の専売特許のように扱われていることが多いそうですが、これは本来生き方のことを示す言葉です。
その人が何を信じて生きていくかが信仰の原点であり、どういう生き方をしていくかが信仰の実践です。そしてこの信仰が長い年月をかけ、様々な人々の間を伝承され暮らしの中に息づいていきます。それが私たちの生活文化であり、暮らしの実践ということになります。
先日、私たちが実践した天神祭もまた暮らしの実践の一つです。菅原道真公をお祀りし、自分たちがどのような生き方を実践していくか、そして何を大切に生きていくかを学び直しそれが暮らしの中の一つの行事として遺って子孫へと譲られていきます。
まさにこれも行事を通して信仰が暮らしと同化して私たちの生活に活かされていきます。これらの信仰が方向性であり、私たちは暮らしを通して方向性が定まっていたからこそ和の精神が醸成されたように思うのです。
和の心や和の精神とは、私たち日本人の先祖が長い時間をかけて大切にしてきた生き方そのものであり、その和に向かっていくからこそ持ち味も活かされ平和を創りだすことができたのです。
そしてこれは決して古くはなく、新しいのです。温故知新はまさに企業や組織の運営にも役立て、これからの時代の新しい和の経営すぐに活かされるものです。私の本業もまたこの和が基本です。
引き続き、子どもたちのためにも暮らしの実践を通して和の甦生に取り組んでいきたいと思います。
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先生方の喜びようは私たちの喜びであり、見て感じで伝えずとも伝わるものがあったように思います。それは信仰するものが近く。暮らしの中で大切にしているものを同じくしてるからのように感じます。ビジネスを超え、喜ばれるということが本来の人様のためにお役に立つということなのかもしれません。日々の実践を大事に、来るべきときに発信していけるよう、自分にできることをしていきたいと思います。
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「信仰」とは「何を信じているか」ですが、「信じる」とは「何を大事にするか、どちらを優先するか」ということでもあります。「和」とは、その時々に、「全体と個が一体になることができる」ということでしょう。「行事」も「暮らし」での一部ですが、みんなで「日々の暮らし方の確認する」という役割があるのかもしれません。
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聴福庵だからと言うわけではなく、既に社内での私たちが和の環境の中にいるからこそであることを今回の体験から改めて感じました。例えば厨房で食事の後片付けをしている際も、洗う人、流す人、運ぶ人、拭く人、と自然と皆で取り組んでいましたが、そんな姿も社内と全く変わることがないため何の違和感もありませんでした。聴福庵での体験は大事ですが「そこだから出来ること」にしてしまえば、これもまたイベント的になってしまいます。来庵して下さった方々にもこの体験を活かして頂きたいからこそ、まずは自分がこの体験を日頃の方で活かしていきたいと思います。
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和合することの意味を今回の聴福庵で体験させていただいたように感じます。ゲストとスタッフの違いは、やってあげる保育と見守る保育との違いのように感じました。お客様との関わりも同じことなのかもしれません。大切な体験を仕事や人生に活かして行きたいと思います。