先々月から掘り始めた手掘りの井戸は無事に最後の仕上げまでを終え甦生することができました。振り返ってみると、不可能に思えたことが何度もありその都度、仲間や井戸職人、また聴福庵に助けられ信じる力が高まって掘り進めることができたように思います。
そもそも古民家甦生の中で水神様をお祀りすることは決めていましたが、その最初の背中を押していただいたお客様がいて、井戸掘りの最中、ずっと見守ってくださった井戸職人さんがいて、楽しそうに手掘りで掘り進めてくれた仲間や家族があり、最後は水が湧き活気づき、聴福庵の喜びもあって甦生することができました。
多くの関係者の御蔭様で、みんなで協力して助け合ったからこそ信じる力も伸ばし今回の甦生が行われていることに気づき改めて感謝の念がこみあげてきます。
澄んだお水が井戸から滾々と湧きあがってきますが、これもみんなで信じて助け合って湧き出てきてくださったお水です。その奇跡のお水をいつまでも忘れたくないと思い、みんなが力を合わせた美しい暮らしが子どもたちへ永遠に続くことを願い、井戸の水神様をお祀りしようと思いました。
人は、信じることと、お祈りすること、そして実践すること、感謝することを繰り返すことで一つ一つの心のご縁を結んでいくものです。言い換えるのなら、御蔭様の有難さを感じながら一つ一つが自然に結ばれていくのを信じ待つ心境とも言えます。
信仰心というものは暮らしの中に深く息づいており、暮らしが実践されるときそこに信仰心が育っているとも言えます。日本の家が子どもたちの先生となり、日本民族を伝承するなかで、何よりも尊い伝承の一つがこの「信仰心を育む」ということではないかと私は感じます。
今回の井戸堀りであっても、さまざまな困難があるとき仲間たちは自然に水神様に祈り、そしてみんなで信じ、協力し助け合い行動し、最後は感謝をして何度も何度も手を合わせていました。こうやって何回も何回も暮らしの信仰を続けていく中で私たちは魂を磨き、心を高めていきます。
日本人の暮らしの中心には常に信仰があり、宗教などなくても生活即信仰という道の生き方があるのです。私の人生の実践でもあるかんながらの道もまた、この自然への信仰と祈り実践と感謝の道であり、これを続けることでどのようなご縁に結ばれ天命を果たしていくのか、あるがままを受け容れてあるがままに活かされていくという境地を学ぶ旅でもあります。
引き続き今回の体験を子どもたちの未来に結んでいけるように、体験した学びを暮らしに役立てお仕事に活かし、仲間やパートナーと一緒に平和な社會の実現に向けて学び直して精進していこうと思います。
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「信じて、祈り、実践して、感謝する」あらゆるものが、この繰り返しのなかにあるでしょう。しかし、多くの場合、この最初の「信じる」というところが弱いようです。ここが足りないと、そのあとの「祈りも実践」も弱くなります。人は「信じる」ことで強くなります。「結果」から発想せず、「信じる」ところから、すべてを始めたいと思います。
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古民家にいると暮らしと信仰ということを見えずとも感じるものがあります。実家に暮らしていた頃も、今一人暮らしをしていてもそうですが暮らしと信仰は切り離されているように思います。せいぜい年に数回お参りに行く程度でまるで別世界で、火や水も感謝して使うという感覚も湧いてきません。ただ、暮らしが変わると信仰も芽生えるというのも実感としてあります。大人の私よりも子どもたちはもっとすんなり入ってくると思います。
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今日は授業参観と新入学の説明会でした。一日を終えてみると有難いことに良い先生に恵まれ、良いお友達に恵まれ、今日はただただ、手を合わせて感謝をするしかないほどです。同時にまた、感謝ばかりしていないで、自分はどうなのかと考えさせられるばかりの一日となりました。手を合わせる出来事に恵まれることは有難いことでもありますが、同時に身が引き締まり、頂いたご恩を自分でとどめないようにと感じます。せめて、今日自分ができることは、精一杯、やりきって、お役に立っていきたいと思います。
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あのような綺麗な水が湧き出ている今の姿を見たら、ゴミと一緒に食器などが無残に埋められていたことなど想像も出来ません。この体験を経たら、もしまた埋めることがあったとしても、あのように埋めることはあり得ないことを思うと、井戸を掘ることはそのまま信仰でもあり水神様との関係づくりでもあったように思えます。掘り進める中で亡骸のような食器たちを目にした時に手を合わせ、いよいよ掘り進めるのが困難になった際にも手を合わせましたが、不思議とそれに応えて下さったような体験をすることが出来たのも、今思えば何か大きな力が働いていたのかもしれません。