昨年、包丁の研ぎ研修を受け包丁研ぎをはじめてから様々な和包丁のことを深めています。この和包丁は、「和」とつくように日本の文化から発明された包丁です。
そもそも「包丁」という名の由来は、荘子の「養生主篇」にある中国の戦国時代の伝説の料理人からきています。「庖」は料理人のことを指し、「丁と言う名の料理人」と言う意味とも言われます。
これはどういう内容の故事であったかご紹介します。
『庖丁はある時、魏の恵王の前で牛を一頭料理してみせました。この時の庖丁の刀捌きは見事の一言で、あっという間に肉は骨からはなれていき、手捌きが刻むリズムは心地よく、身のこなしは殷の湯王が桑林の地で雨乞いをした際の舞楽「桑林の舞」を思わせ、手の動きは堯の時代の音楽である「咸池」の一楽章にあたる「経首の会」を思わせるほどだった。そこで恵王は、「実に見事なものだ。技も極めるとここまでになるものなのか。 」と驚嘆の声をあげて褒めたたえたといいます。それを聴いて庖丁は刀を置き、『これは技ではございません。技以上の「道」なのであります。私がはじめて牛を料理した時は、目にうつるのは牛のみでどこから手をつければよいか見当もつけられませんでした。しかし三年目には牛の身体の構造が見えるようになり、今では目を使わずとも心で牛の身体をとらえて、骨と肉の間に刃をいれ、けして骨に刃があたるようなことはありません。牛を料理する際は、料理人はどうしても骨に打ち当てて刀を折ってしまいがちです。私は、この刀を19年近く使って数千頭の牛を料理してきましたが、刃は研ぎたての新品同様です。 』と語りました。庖丁の言を聞いた恵王は、「これは良い話を聞いた。無理をしないのが人生を全うする極意と心得た。 」と言って、料理する刀を庖丁と呼ぶようになった。』
この故事が日本に伝来し「包丁(ほうちょう)」という名で今では当たり前に台所で私たちの料理を手助けする身近な道具として使用されています。
以前、東京の250年の御鷹匠の老舗(今では軍鶏鍋)の玉ひでに訪問した際、案内に初代山田鐵右衛門が将軍家の御前にて、血を見せることなく骨と身を取り分ける包丁さばきで鶴を奉納する御鷹匠仕事を行う家だったことを思い出しました。
本来、包丁は日本刀を用いて料理をはじめその後、次第に形を変えて今では100種類以上の和包丁が存在します。そのものの素材やいのちに合わせ、様々な形状を持つ和包丁には、日本人の素材やいのちに対する生き方、姿勢(道)を感じます。またお造りや刺身に見られるように、魚そのもののいのちを傷つけずに庖丁を入れる日本の技には和包丁の特徴が発揮されています。
日本の風土は古来より瑞々しさと新鮮さにより生食を好んできました。そのいのちを活かす料理には、和包丁の存在は欠かせません。今では、一般的な家庭の台所には西洋の便利な包丁が1本か2本しか持ち合わせていない家も増えているようですが世界が感嘆して評価する日本の伝統文化「和食」を陰ながら支えているのは和包丁の存在であるのを決して忘れてはなりません。
かつての時代の和包丁もご縁から少しずつ聴福庵に集まってきました。あらゆる料理の素材をどの包丁を用いるか、どのように切ればそのもののいのちを活かせるか、奥深い世界が存在しています。
古の道具は、私たちの魂を磨き先人の智慧が凝縮された日本文化の道具は私たちの生き方そのものを磨き直します。
引き続き、包丁と研ぎを深めながら子どもたちに生き方を伝承していきたいと思います。
コメント
「捌く」というのは、「殺す」ことにもなり、「生かす」ことにもなります。道具の選び方で、どれだけ生かすことができるかも決まるのでしょう。また、道具は良くても、その使い手の「心」と「腕」の問題もあります。名刀に人が選ばれるように、本物の包丁にも、人が選ばれるのかもしれません。
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捌く、割る、絞めるなどいのちを頂く際に遣う言葉が豊富にあることを感じます。「庖」という字が料理人という意味があることを初めて知りました。同時に包むという意味も含んでいることを思うと、大事にいのちを扱うという精神性が包丁を発展させてきたようにも思います。よく切れて怖いイメージもありますが、いのちを向き合っていることを忘れずに感謝したいと思います。
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鯛のアラなどをやろうとすると、普通の和包丁や洋包丁ではどうしても力を入れられず、また無理にやると刃がかけてしまったりと、困っていたので今年の誕生日には出刃包丁をと今月始めから折をみては深めつつ探していたところだったので、びっくりしました。素材の味や力を引き出したり、活かすためにはと考えられた和包丁の数々は扱いも難しいものですが、自分の中での「引き出す」という感性を磨いてくれることは間違いがないように感じます。それはやってあげるではなく見守るという観点や感性とも何か似ているように感じます。
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以前、和紙職人のもとへ訪れた際のことを思い出しました。職人の方が自分の作った和紙を切るのに刃物を使わず、折り目をつけて水を含ませ手で割いていったのを見て、それは「切る」ではなく「解く」ようであり、和紙のそのものを尊重した切り方のように思えました。捌くというのもこの解く感覚に近いように思え、本来心がしっかりと伴っていないと出来ないことのように思えます。何かを傷つけてしまう時は心が入っていない時なのだと注意したいと思います。