石工の魂

昨日、江戸時代末期から続く郷里の老舗石屋の五代目主人の方にお話をお聴きするご縁がありました。聴福庵の沓脱石を探している関係でご縁をいただきましたが、改めて石大工の仕事の深さを感じる機会になりました。

そもそも石屋は、石を刻んで細工する職人のことをいい石大工、もしくは石工(いしく)と呼びます。

石大工の歴史を辿れば、はじまりは遺跡にもあるように石を様々に加工して暮らしの中で利用したところがはじまりだと思いますが主に進歩があったのは鎌倉時代で社寺造営に石材が使われはじめ石大工の活動が活発になった頃からだといいます。室町時代には一般庶民の神仏信仰が盛んとなり各地に石仏や石卒塔婆が作られるようにもなってきます。そして戦国末期から江戸初期になると築城用石材が多く使われ、茶の湯の流行もあり茶庭におく石燈籠や手水鉢など小型石材加工品が出てきます。さらに江戸時代も中頃になると庶民でも墓石をつくることが一般的となります。そして全国各地で石切場の開発がなされ、石屋が急増したといいます。近代は、戦争があって戦死者を祀ることでたくさんの墓石が建てられました。そのころがピークであとは、安い韓国製や中国製、手作業から機械に代わり大量生産が可能で加工が便利になり、かつての石屋が激減して今に至ります。

昨日、老舗石屋の五代目主人にお話をお聴きしていると石大工の仕事は心が必要であること、石という何億年も何万年もかかってできたものを加工するのは神仏と深いかかわりもあり、神聖な仕事であること、先祖先人が遺した真心の手を入れた石にはいつまでも守る責任があることなど教えていただきました。

現代は、墓石も建てられないどころか捨て去られ、安価に購入できる外国産の石が国内には溢れています。またかつて貴重といわれた石も、卸業者によって価値が壊れてしまいゴミの山のように廃棄されています。石の最期は、産廃業者が集めて粉々にし砂利にすると言っていましたが長い期間をかけて出来上がった石をいとも簡単に機械で粉々にして捨てるという現実をお聴きし、人間の都合の便利さの陰に昔ながらの自然との共生が失われていくのを改めて実感しました。

最近では伝統の石大工は激減し、ほとんどが廃業に追い込まれてしまったそうです。五代目主人が修行した四国の伝統的な石屋も先年に倒産したそうです。畳や桶と同じで、日本の大切な文化が消えかけているのはこの石工にも起きていました。

また石場で捨てられた石が山積みになったところをみると、お地蔵さんや名前の入ったお墓、その他、仏塔や石碑、ありとあらゆる石がゴミのように捨てられていました。

江戸時代末期から明治の頃のお話をお聴きすると、先祖の石大工は鑿と金槌を持ち山に入り石があるところで墓を加工していたともいいます。また墓を建てるというのは、祝事ですから地域の人たちがみんなで無償で協力して石を運び、助け合って建てていたといいます。その頃は、石工も一緒にご祝儀をいただいていたそうです。そのころの方が、石も喜んでいたのではないかと感じます。戦争時に戦死者が増えてみんなが墓を建てた理由は、その人たちの御蔭で今の自分たちがあることを忘れまいとしたからだそうです。今はその建てた世代が亡くなり、途端に管理が面倒だからと墓が子孫によって捨てられていくようになったと嘆いておられました。

悠久の年月、いつまでもその人の御恩を忘れないようにと頑強で丈夫な石を選んでしっかりと心を籠めて刻んだものが今ではそれが処理するのが高価で不便になり、そのまま放置して誰も管理せずに捨てていく理由になっているというのはとても残念なことです。これは古民家の空き家と同じです。

石は私たちに記憶を刻むように心を留めます。その心に留めたものを捨てるのは、私たちが初心や原点を忘れているからかもしれません。

改めて石大工の棟梁の心構え、石工の魂をお聴きし、ここにも日本の職人文化が深く根付いていたことを学び直しました。改めて、聴福庵の仲間になってくれる沓脱石の存在と今回のご縁を結び、自然を尊び、石の本質を確認しながら和の甦生に取り組んでいきたいと思います。

  1. コメント

    これまで石について深く考えたことはありませんでしたが、墓石に刻まれたご先祖様の名前を見ると、子どもながらに自分にはたくさんのおじいちゃん、おばあちゃんがいたんだと時の流れを感じたことを思い出しました。畳も桶も、そして石も時代の影響を受け今に至っていると思うと、この中から学び次代へどうしていったらいいかを考えなければなりません。新たに仲間入りする沓脱石に会えることも楽しみですが、できることを見つけ実践に変えていきたいと思います。

  2. コメント

    「石」には、紙や木、あるいは土に比べて、「時間の長さ」というか「永遠性」を感じます。「残す」とか「忘れない」「示し続ける」という目的には非常に適した材料であるともいえるでしょう。それを加工しようとした先人の発想の背景には、神聖な祈りが込められていたのかもしれません。壊れることはあっても、朽ちない性質には、また特別な意味があるのかもしれません。

  3. コメント

    山に登るとケルンが積み上げられ、そこに登った人たちの想いが蓄積されていることを感じます。また、一般庶民が墓石に名前が彫られるようになったのは最近の話だといわれていますが、それでも昔から岩を使っていたのは変わらない性質だからなのでしょうか。なんだか岩そのものが持つパワーや思念があるのかもしれないと思ってしまいます。先日、「悠久の時間を持つものを使いすぎると地球の循環を汚してしまう」ということを天神祭の勉強会で学びましたが、アイヌも墓に石を使わなかったのは地球の循環そのものであり続けるためだったのかもしれないと感じました。形の残らないものだからこそ、伝承文化、口伝が発達したことを思うと、それぞれの利点があるのだと感じます。

  4. コメント

    石工の方の嘆きは、その自分たちの職がなくなっていくという心配ではなく、日本人が大切にしてきた心が失われていくことへの憂いなのだと感じますが、それを思うと時代にあわせてより大きなものを守ろうとしていく働きが必要になってくることを感じます。私たち自身も、働きの幅が広がってきていますがそれは本当に大切にしたいものを守ろうとするからこそのことだと、繋がりを感じながら臨んでいきたいと思います。

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