老師の遺した有名な言葉に、「天之道、不争而善勝、不言而善応、不招而自来、然而善謀。天網恢恢疏而不失。」があります。これは「天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、招かずして自ら来り、然として善く謀る。天網恢恢疏にして失わず」という意味です。
天に問い、天が見ているとし、ありのままであるがままに生きる人は正直の徳を磨いていきます。この正直の徳とは、自分の心を天に映す鏡として鑑照する生き方を実践していくということです。
私が尊敬する吉田松陰は、その辞世の句で「吾 今 國の爲に死す 死して 君親に 背かず。 悠悠たり 天地の事 鑑照 明神に 在り。」といいました。
これは意訳すると「私は今、故郷の国のために命を捧げ死んでいきます。私は死ぬに際しても親祖や恩君へ対する道に背くことはありません。悠久に続く天地のことだからこのことは天が観てくださっている、八百万の神々、どうかご鑑照ください」と。
天が観ているという心境は、自分にとっての都合や損得、その他の利害などを優先しているのではなく文字通り天に問い天が見ているとし天の基準に沿って歩んでいくという道の生き方です。
天が見ているという生き方はとても明るくのびのびした精神を持っています。そこには自己を中心に裏表があるのではなくそのままの自分を天に見てもらっているという偉大な安心感を持っています。
自分の心に正直であるか、自分の心は真心のままであるか、それは自分ではわからないものです。だからこそそこを天に問い、天がどうなさるのかの判断にゆだねて任せて生きていくのです。
私自身もいつも真心で生きたいと思っていますが、果たしてこれが真心であったのかどうかわからないことばかりです。しかし天が見てくださっていると信じて、天の判断に任せてそれをすべて受け入れて受け止めると覚悟を決めて歩んでいけばそのすべては天の采配であったと直観し、これでいいとすべてを丸ごと受け容れることができるように思います。
この天の采配とは、偉大な天の真心に触れるということです。
吉田松陰は生き死にが判断基準で良し悪しを考えたのではなく、まさに天の采配のすべてを信じて道を貫いたのでしょう。
最後に、常岡一郎氏にこんな言葉があります。
「宝物は大切にされる。危険なところに置かないように心を配る。人の世の宝と仰がれる人がある。そんな人は自ら求めてなくても大切にされる。心の使い方の美しい人はよい運命に守られている。危ないところから遠ざけられている」
吉田松陰は俗世にまみれてなお魂を磨いて俗世の穢れを取り払い、澄んだ心を磨き切った宝だったように思います。今でも大切にされるのは、その心の使い方が美しかったからです。生き死にが問題ではなく、天命のままにやり遂げたというところに運命から守られたという余韻を感じます。
このように死してなお今でも燦然と輝き続ける吉田松陰の魂のように、天は必ずその人の天命に沿う生き方を未来永劫変わらずに応援してくださいます。私の歩んでいる道はかんながらの道、悠久の八百万の神々と共に往く道ですから常にその古の神々がいつも見ているとし天との対話を続けて歩んでいきたいと思います。
コメント
人を相手にすると相対的になり、真のあるべき姿を見失ってしまいます。「天網恢恢疎にして漏らさず」とも言いますが、すべてはお見通しです。日々与えられる環境は、日頃の願いと行動に対する天の判断結果ですから、天を相手にしながら、克己の工夫を重ねるとともに、見守りを信じて絶対安心のなかで全力を尽くしたいと思います。
コメント
子どもの頃、嘘をついたりすると、どこかもやもやした気持ちになったことを思い出します。大した嘘でなくても、誰も気づかなかったにせよ、自分だけは本当のことを知っているというのは、妙な気持ちです。子どもか大人かに違いはありませんが、自分を抑え周りに合わせ、本心さえもわからなくなるのが大人の社会なのでしょうか。子どもの見本となるような生き方をしていけるよう、精進していきたいと思います。
コメント
目の前のことに対して正直であろうとしても、視野が狭くなってしまう自分がいますが、その時に天に対して正直であろう、全体に対して正直であろうと、目先ではなく大きな時の流れに正直であろうとする自分を持ちたいと感じました。目の前には我が出やすいからこそ、天や自然を敬い、流れのなかで正直さを見つめ、磨いていきたいと思います。
コメント
正直という言葉も以前よりだいぶ意味合いの受け取り方が変わってきています。何をもって正直かと、それも人それぞれ意識の差もあり深さもまた違うように思えます。答えを生きている人、という言葉が印象的でしたが、天に全てをお任せして信じた道をただただ歩んでいくというつよさを持って生きたいと思います。