昨日は、天満神社の参道や周辺を仲間たちと一緒に掃除してきました。この時季は特に落ち葉や枝が多く、掃いても掃いてもまた翌日には落ち葉の山です。しかしこれはただ結果だけをみて綺麗にすることが目的ではなく、信仰心の実践として掃き清められるのが自分自身ですから落ち葉があることはかえって自分自身と向き合うには有難い存在です。
中国、南宗禅中の洪州宗の祖馬祖道一の法を継ぐ唐時代の禅僧に百丈懐海という方がいます。この方は、掃除を座禅と同様に大切になさったいたそうです。その理由は、「己の心を磨く」ためであるという信念によるものだったといいます。
またこの方は「一日作さざれば一日食らわず」とし、暮らしの実践をすることこそが修行であるとし自給自足を確立しました。日々の暮らしの実践にこそ己の心を磨くすべてがあると見なしたのかもしれません。
昨日もみんなで掃除をしていると、みんな無心で掃除をしています。誰一人口を開くわけでもなく、自然に掃除と一体になっていきます。夕暮れ時で暗くなってきていたからか、みんな掃除に没頭していたように思います。
心を高めていく工夫は、生活の中に存在します。ちょっとしたことにどれだけ丁寧に心を籠めていくか、一日一日の小さな作務にどれだけ心を用いていくか、日々に心に降りかかってくる汚れや散らかりを如何に片付けていくか、それは心の内省にも似ています。
毎日、生きていれば様々なご縁と出来事に出会います。そうやって降り積もってくる日常を、毎日振り返りながら反省し改善を続けていく。小さなことではありますがこの積み重ねこそが心を磨いてくれるように思います。
人間は、人格形成においてたった一人の自分を自分で育てていきます。その自分には心がありますからその心がどのような心境であるか、平常心はどのようになっているか、そこに一つの達人を目指すことで人生が揺るぎない豊かなものになっていくように思います。
形式的な外的な豊かさではなく、心の豊かさを併せ持つ真の豊かさは暮らしの実践により高まっていくものです。今日の行事もまた、暮らしの実践としてみんなで心を磨き心を高めて精進する大切なご縁にしていきたいと思います。
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「掃除」をしたところはきれいになりますが、きれいになると、今度は、掃除をしていないところの汚れが目立つようになります。すなわち、きれいにすればするほど、汚れているところに気づくのです。環境の掃除は、心の掃除に通じていると言いますが、掃除を通じて自分と向き合うと、自分の心の汚れているところがわかります。そして、それは、自分の心が汚れていたことに気づくことであり、同時に、「汚れる前の元の心」を取り戻すきっかけとなるのでしょう。
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日本人はきれい好きと外国の方が言っていました。また、サッカーの国際試合で日本が試合に負けても、応援席を掃除する姿に賞賛される報道もありました。掃いたり、拭いたりしはじめると没頭してしまうのは、山にも川にもどこにでも神様がいると、潜在的に備わっているものが呼び戻されるのかもしれません。普段のマンションでは感じられない感覚、本来のあるべき姿で暮らすという実践を積んでいきたいと思います。
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神社の掃除は本当に無心になって取り組むことができ、また手間をかけた分だけ清らかな雰囲気になるのは毎回嬉しいものがあります。実践しているとそれに相応しいものがやってくるといいますが、「磨く」の始まりを改めて感じられた昨日の一日であり、それもまた大きな御縁の日でした。一人で磨くのではなく、御縁ある皆様と日々一緒に磨き合っていきたいと思います。
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掃除を通しての自分との対話は毎回面白いものです。体調が悪くても不思議と心が軽くなる時もあれば、元気でもなにかバツの悪さを感じる時もあります。自分自身の心の姿勢が現れるのだと感じます。都度都度暮らしの中でやらねば、磨かれないかもしれません。まずは目の前の暮らしの中で、神棚への祈りの姿勢から改めて行きたいと思います。