歓びの種

社会現象の一つとして、遣り甲斐や働き甲斐について語られることが少なくなっているように思います。これは生き甲斐のことであり、生きる歓び、働く歓び、遣る歓びを感じにくくなってきているということです。

まず働き甲斐というものは、決して楽ばかりを求めたり、効率や結果ばかりを望んでいても得られるものではありません。実際に働き甲斐は、苦労や非効率、プロセスの中に存在するものであり不便さや手間暇の中で感じるものです。

仕事をする際に自分自身がどういう考え方や姿勢で臨んでいるか、先ほどのように効率優先、要領よく、結果だけをみて早くスピーディなことばかりをやっていたら働き甲斐は失われていくのです。楽ばかりを求めていく社会の価値観に自分も流されれば、日々の仕事はつらいだけのものになります。苦労するのは、誰かの役に立つ歓びを同時に連れてくると感じるのなら、誰かのためになることと自分のためになることが仕事になるように努めていくことが好きな仕事にしていくコツかもしれません。

好きなことをやるというのは、単に自分の趣味をやるということではありません。自分が何のお役に立てるか、どういう天命を持っているか、自分の才能がどのようにみんなの役に立つか、自分にしかできないことで如何に世の中の力になっていくか、ここに生き甲斐と遣り甲斐があり好きなことに出会います。

大好きなことを仕事にする人はみんな、そういう自分が役に立っている歓びを知っている人たちであり、好きなことをして生計を立てることができる仕合せを享受しているとも言えます。

人間社会には、得るものと与えるものしかありません。自分たちが得ているものは誰かが働いてつくってくださったものをいただいて生活を営むことができています。同時に自分はそれをいただき、誰かに何かを与えることで生計を立てることができています。

与えられたもので生活をしているのだから、同時に与えられた場所と与えられた仕事に打ち込むことで自分も与える側の役割を果たすことができます。もしもそれが自分にしかできないことで、社会が必要としていると実感することができるのならばそれが働き甲斐になり、遣り甲斐、生きがいになるのです。

生き甲斐や遣り甲斐、働き甲斐を持つ人は自分の天命を愛しています。同時に仕事も愛しています。自分が心を籠めて取り組んだ質量が、その仕事の値打ちを高め自分の値打ちも上げていきます。どれだけ本気で自分の与えられた仕事に没頭できるか、ここに私は歓びの種があるように思えます。

どんな種を与えてもらったとしても、それを懸命に育てていく中に生き甲斐があります。子どもたちに全身全霊のすべてを与えて愛を育てるように、自分の仕事にも同じように全身全霊の愛をもってかかわっていきたいと思います。そしてそれこそが生き甲斐であり、遣り甲斐であり、働き甲斐なのです。

子どものためになり自分のためになる仕事は偉大な遣り甲斐を感じています。引き続き、いまここの使命に没頭しながら生きる歓びや仕合せ、仕事ができる有難さに感謝しながら取り組んでいきたいと思います。

  1. コメント

    人の生き方には、「与える側で生きる人」と「与えられる側で生きる人」がいると言います。「与える側」の人は「与えること」に喜びを感じ、自分に何ができるかを探求します。「与えられる側」の人は「与えられること」を当然とし、与えらなくなると不満を言います。結局、「どちら側で生きるか?!」で、生き甲斐は決まってくるのではないでしょうか。

  2. コメント

    誰かに喜んでもらえることは嬉しいことで、小さい頃からずっとそう感じていました。それが原点にあり、今のお役の頂き働かせて頂いているのだと感じています。子どもたちの近くに自分という種が蒔かれたのは幸運なことで、だからこそ、求めた分様々な経験もさせてもらい、子どもたちに還元していけるよう自分を使っていきたいと思います。

  3. コメント

    頂いている機会を頂いたままに味わうためには、やはり毎日の内省をしっかりと行わなければ難しい中で、その内省の深さもまた、頂いた機会に併せて磨いていかなければと感じます。頂いたご縁や機会が大きいほどに、自分の内省する姿勢が問われる気がします。これもまた、選ばずに愚直に取り組んでいきたいと思います。

  4. コメント

    「子どものためになり自分のためになる仕事」そのように自覚できる仕事に取り組めることは有難いことだと思います。同時に、裏表も嘘偽りもないものであるからこそ自分自身が試されるものだとも感じています。子どもの育ち、子どもたちの未来に目の前のものをどう繋げ伝えていくか、そこが今の課題でもあると、ここに臨んでいきたいと思います。

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