日本には古来から全体にとって善いかどうかを大切にする精神があります。これを「和」とも言います。この和というものは、調和の和であり、バランスを取りみんなで協力し合い生きていくことを優先して暮らしを形成してきた民族です。
この和を尊ぶというのは、日本民族の理念であり日本という国が世界から称賛されるのも根っこにこの和が息づいているからであろうと私は思います。例えば、震災や災害時には日本人は誰に教えられたわけではなく自然とみんな自律して周囲のために思いやりの行動をとります。これは自分だけが勝手なことをせず、全体善のために自分が自らを律して自立するということを実践しているということです。そしてこれが本来の自由の姿です。
「自由」という漢字はもともと仏教から伝来したものだそうで、これは仏陀が臨終が近くなった時に弟子たちに「自らを拠り所とせよ。他人を拠り所とするな。法を拠り所とせよ。真理を拠り所とし、どこまでも向上せんとする自らを灯とせよ。」といったところからきているともいいます。自灯明、法灯明といい、自らに由り、法に由れともいってもいいかもしれません。
ちょっと難しくなりましたが、私なりの解釈ではこの自我に囚われないで思いやりを盡すことや、我執を手放し真心で生きていくことを指すように思います。そしてそれを自分自身で自覚することは、勘違いすることもあることからみんなのためになることをし、全体にとって善いことになるようにつとめていくことをいうのだと思います。そしてその状態が「和」であり、社會の一員として周囲を思いやり生きていくことを優先して平和を築いてきたのです。
現在、その自由の意味が単なる束縛からの自由であったり、外圧からの自由、自分の欲望を開放する自由や、常識から逸脱することを自由だと定義しているものもあります。人格が未熟な状態で自由を持てば、人間はその自由を武器にして他を傷つけ、周りを排斥し、平和を壊し戦争を生み出します。そうなると結局は、対立関係になりいつまでも本当の自由は訪れることはありません。
本当の自由は、全体善のときにこそ出てくるものです。日本では八百万の神々といって、この世のすべての存在は神様であるからその神様たちがみんな仕合せになるように配慮して生きていこうとする思想があります。
これは自然の思想ですが、みんなによって善いものを探しみんなにとって善い生き方をしていこうと全てを幸福にするように自分を少し慎み利他に生きようとし循環型の社會を築いていきました。
本当の自由は、どこまで全体を自分だと思い思いやるか、如何に自分が全体によって生きていられる存在であるかを自覚することで目覚めていくことができます。それを私は自他一体の境地であるとしています。
引き続き、子どもたちが未来に異なりや違いを超えて幸福な社會を築いていけるように様々な刷り込みを取り払っていきたいと思います。
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「全体と個」を考えるときに、「全体が分かれて個になった」と考えるか、「個が集まって全体をつくっている」と考えるかで、「自由」の考え方は違うでしょう。前者は、「全体の中の個」であり「全体あっての自由」ですが、後者は、「わがままが通るとバラバラになる」可能性があります。日本人の中に流れている、「全体観」を大事にしたいと思います。
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自由というのは自分が思っている以上に責任のあることで、仏陀の言葉を読むと自由という言葉も、衣食住と同じように古来からのあり方と変わってきているのかもしれないと感じます。よく見聞きし遣う言葉だからこそ、自分自身の言動を振り返り、気づいたところから改善していきたいと思います。
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教育とは何かということに対し、本来は世の中に役に立つ為という明確な目的があったものが、今は個人の為にとなってしまっています。私自身、子どもに対する眼差しを振り返ると、娘や息子本人の利益や将来を考えてしまいがちですが、そもそもは世の中にどう役に立つ人間になれるかを一緒になってやっていくだけなのかもしれません。囚われない様に日頃から意識して取り組みたいと思います。
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同じものに変えていくことで一つに纏まっていくのか、異なるものが同じ方向を観るようにして一つに纏まっていくのか、目的は同じなのかもしれませんが、思想によって変える・変わる対象が違ってくるように感じます。うわさ決めつけ裁きなど、人の眼差しは顕著にそれを表すように思うからこそ、聴福としての和の生き方を大切にしていきたいと思います。