自由や平等という言葉は、以前からよく権力や支配に対立するものとして用いられています。言い換えれば、権力や支配によって社会を管理していく中で反発するものは排除していこうとするときにこの言葉が使われることが多いように思います。
人間は社会をつくっていく生き物ですから、そこに個々の主張が入ってくればどう折り合いをつけるかを考えなければなりません。それを誰かだけの主張を優先し個々を無視したり軽視すればそこに差別が発生し反発していくものです。
宗教論争や、戦争の発端になるのもまたこの人権のところが折り合いがつかずに争いは尽きません。歴史をみて今をみても、あまりその問題は変わっておらず世界情勢を観ていてもいつも問題は自由や平等の主義主張の話ばかりです。植民地化するということが前提になっている国造りではこの問題はいつまでもなくなりません。勝者や強者が敗者や弱者を支配すれば、対立がうまれすぐにまたその立場が栄枯盛衰で逆転すると何度も似たようなことを繰り返していることに変わりません。
7世紀初頭、日本ではこの似たようなことに正面から向き合った方がいました。それは聖徳太子です。この時代は、それまでの日本に渡来文化や宗教、他民族との融和などあらゆることが同時に発生していました。その争いの姿を観た聖徳太子は、未来の国と子どもたちの行く末を案じて国家の理念を明確に打ち出しました。それを17条の憲法を制定し、「和をもって尊しとなす」としたのです。
この「和」は、すべてのものが守るべき理念でありその理念を何よりも優先することとしました。これは日本の風土の中では、どんな民族、宗教、文化の違いがあったとしても、何よりも仲良く協力して調和することを優先しなさいといった考え方です。
誰かが誰かを支配するのではなく、一緒になって協力して調和を優先していこうとすること。言い換えるのなら、個々を尊重し合い和することを絶対的なルールにしなさいということにしたのです。
それぞれに信じたものを絶対的な正義にしてその正義を振りかざせば対立や争いは尽きません。そうではなく和を優先していけばそこには調和や融和、対立や争いではないところで対和していくことができます。そこからお互いを思いやることを大事にしてみんなで一緒に助け合い生きていく方法を考えようとなるのです。
日本の平和の精神の礎はこの「和」にこそ存在します。
あの時代から1300年、変わったようで変わらないのが人の世の常です。しかしあの当時に心配してきたものが世界の国々がいよいよ混ざり合う今の時代になってようやくはっきりとその意味と向き合う時期に来ています。
日本に産まれ日本人としての役割を世界に果たしていきたいと思います。
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「和をもって尊(貴)しとなす」まず、この「和の理念」は非常に次元の高いものですが、それを、単に「優先する」というレベルではなく、「尊しとなす」という価値観を受け入れることができた日本人の精神性の高さを、ほんとうに誇りに思います。「何が尊いことか?!」ここを、日本人としてもう一度押さえ直しておきたいものです。
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日本に住んでいると日本人とは、ということをあまり意識しませんが、海外から見た日本の姿に新たな発見があります。そして、その礎を築いてきたご先祖様がいて、自分がいることを思うと同じ役割を担っていることを感じます。「和」という精神性を大事に、ご先祖様が守り続けて来られたものを大切にしていきたいと思います。
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個々を大切にと思うと、ルールを作ったり、善悪を作ったりと対立が生まれますが、そもそも分かれていないで和なのだという思想にはルールや善悪すら有機的なのだと感じます。ピーステーブルも「和を以て尊しとなす」という理念そのもののように感じます。今と相手をよく見て受け入れ、融合する。そんな感覚は何か、傾聴共感受容感謝の行動のように感じます。改めてそこからの自分の振り返りを大切にしていきたいと思います。
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他者を思いやり、仲間と助け合い、徳を積み重ねていくような和の取り組みを重んじる日本的経営。自分という一人の人間を経営しているのが個人だとしたら、日本的経営とはまさに「聴福人」という生き方なのだと感じられます。日本人らしい生き方を聴福の実践を通して取り戻していきたいと思います。