古民家甦生を実践する中で、囲炉裏や竈、和ろうそくなどかつての暮らしの火を中心に甦生していきますがこれはとても現代の暮らしとの対比をするのに重宝しています。
かつて日本の民俗学者である柳田國男氏にこのような記述があります。
「世の中が進んだということを今が昔とくらべてどのくらいよくなっているのかいうことを考えてみるのには火の問題が一番わかりやすいと思います。闇を明るくするために昔は大変な苦労をしたのであります。」
今では電気をつければスイッチ一つでどんな暗闇も瞬時に明るくなりますが、昔は夜を明るくするということは大変なことでした。昔のことを調べていると、かつては夕方になるとじわりと送電線から電気が流れてきて夜は電気が灯され、朝方には自然に消えていたといいます。スイッチなどもなく、水力発電などで電気を送電していたそうです。
明治の頃、若い留学生たちが欧米に渡航した際にガス灯で明々と照らされた夜をはじめてみたとき、きっと今では計り知れないほどの衝撃であったかもしれません。それほどかつては、夜は真っ暗であり火を灯しながら暮らしを成り立たせていました。
現代においては、コンビニを中心に明々と町中が照らされ、どこもかしこも街灯があり都会などはまるで昼間のようなネオンの明るさでにぎわっています。夜が失われたことと同時に、火の暮らしも失われたのです。
しかしこの懐かしい火の暮らしは、人間を内省的にし、心に豊かさとぬくもりを与えていました。ゆらゆらと揺らぐ炎には、まるでいのちの様相を実感し、その灯りによって精神が落ち着いて心が穏やかになったものでしょう。
なんでも便利になっていくと当たり前のことに感謝できなくなっていくものです。そしてそれは物だけではなく人に対しても感謝の気持ちが失われていくものです。不便さというものは、当たり前ではないことに気付けるものです。電気の有難さは電気が失われて気づきます、そして火の有難さも火が失われて気づきます。
便利になればなるほどにもっとも当たり前である大切な存在を忘れ、そうではない存在ばかりを気にしてしまいます。太陽であったり空気であったり水であったり火であったり、私たちはもっとも当たり前にあって大切である存在に日々に感謝できているでしょうか。
便利さという豊かさは、真の豊かさではありません。不便さの中にある豊かさは、当たり前の存在をいつも気づかせてくれます。昔の人々は、人間として感謝の心が磨かれていたからこそ自然そのままの暮らしで善かったのでしょう。敢えて技術的な豊かさに走らず、もったいない質素で慎ましい暮らしの中にある心の豊かさを大切にしたのかもしれません。
火から学ぶものを、様々な心のカタチにして子どもたちに伝承していきたいと思います。
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聴福庵の変遷を夜の明かりの元、ゆっくり振り返っていると、あっという間でありながら、濃密な月日を過ごし、1話完結では気づきませんでしたが、読み返してみるとまた感じるものがあり、積み重ねがあって今日に至っていることを思います。竈の火入れも、本当にすごいことなのだと感じています。普段はスイッチ一つで怖さを感じていませんが、竈に入っている火には怖さも同時に感じます。ですが、この温かさは単に竈に火が灯っただけではないものを感じます。みんなで一緒に土を叩き、皆で眺めたあの情景は便利さを追求した中では感じられないものばかりです。やってみたいと思うワクワク感をどんどん試していきたいと思います。
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「灯り」の本質は、闇の中に「灯す」ものであり、「闇を消すもの」ではありません。「勤勉」は大事な徳ですが、それは「働く時間を延ばすこと」ではないでしょう。単に「昼の時間を延ばす」ことは、自然に反しています。「闇を消す」のではなく、「闇の中で灯りを灯して出来ること」を大事にしたいものです。
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お客様にとっての灯りとなりたい、そんな思いが自分の中に強く渦巻いている事を実感します。しかし、同時に自分の心の灯りも誰かにつけていただいたり、磨いていただいたり、消えそうな時に囲っていただいたものである事を忘れてはならないのだと感じました。当たり前でないことだから、恩返しをして行かなくてはバチが当たる様に感じました。循環を止めずにいられる自分に近づいていけるよう今日もありたいと思います。
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子どもの頃からの日常の生活を思い起こしてみても、調理の場での火というものを見ることはあっても、火そのものを観るということはほとんどなかったように思います。今は何かの為にと形を変えられたものが多く、それは火というもの自体も同じなのかもしれません。火と親しむことが増えましたが、眺めているだけでやすらぎが感じられるような、そんな状態で火そのものを受け通っていきたいと思います。