昨日は再び屋根にのぼりみんなで土葺きでの瓦葺きを体験しました。職人さんが軽々とやっているのを見るのと自分たちでやるのでは勝手が異なり、瓦一枚を葺くのに大変な時間がかかりました。
しかしみんなで協力して葺いた瓦には愛着が湧き、そこに綺麗に波打ついぶし瓦の様子にぬくもりを感じます。日本の伝統的なものを伝統的なやり方で実践する、まさに心と技術が調和することで和の家が実現することを再確認する有難い機会になりました。
この後は数週間の間、土を乾かし仕上げにのし瓦や鬼瓦をのせて完成です。時間をかけて土を乾かす間もまた、味わい深い大切な時間です。のし瓦は屋根の棟に来る雨水を表側と裏側に流すために積まれる瓦の事を言います。そして鬼瓦は屋根の棟の端に置く大きな瓦のことでこれは厄除けと装飾を目的として設置されています。
少し鬼瓦を深めますが、この鬼瓦のルーツはパルミラにて入口の上にメデューサを厄除けとして設置していた文化がシルクロード経由で中国に伝来し、日本では奈良時代に唐文化を積極的に取り入れだした頃、急速に全国に普及したとウィキペディアにはあります。
この鬼瓦を眺めていると、家を守る存在が屋根であることをより実感します。中国での鬼は、厄災をもたらすものとして忌み嫌われますが日本のオニは厄災を転じて福にするオニです。
例えば、大みそかに山から降りてくる神さまを祀るのに神が鬼の姿に転じた行事が日本各地に残っています。人々は鬼を恐れながら囃(はや)し、もてなします。また仏教では敵対していた悪が仏法に帰依し仏法を守護するものとして鬼があります。日本では牛若丸と弁慶のように、純粋な魂や義を守る守護神としてオニのような強さを持つ存在を守り神として大切に接してきました。
この屋根のオニは、日本の精神を顕すものでありオニの存在が屋根を守り、私たちはいつも守られながら暮らしているということを忘れないということに気づかせてくれます。
家を思うとき、私は守られている存在である自分に気づきます。家が喜ぶかということは、守られているということに感謝してその家に住まうことをゆるされている自分たちがあると実感して楽しく豊かに暮らしていくことだと思います。
今回の瓦葺きから、日本建築が如何に「守る」精神に包まれているかを学び直しました。引き続き、聴福庵の離れの完成までのプロセスを味わい子どもたちに初心を伝承していきたいと思います。
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沖縄の民家にあるシーサーも守り神だと聞いたことがあります。鬼瓦も同じように家を守ってくれていると思うと、家のあちこちに神様がいるような安心感を感じます。井戸の時もそうでしたが、家が喜ぶに連れ他の神様たちも集まってきていると思うと、今回行ったことは瓦葺きではありますが、それ以上に見えない力が働いていることを感じます。家を守りながら守られていることを忘れず、日本人の暮らしを見つめていきたいと思います。
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文化を守るというのはその守る人も強烈なご縁や意識が必要なのだと感じます。そして同時に、それを実践している方々の声をお聴きすると、それを楽しんでいたり、自分の使命だから明確に受け入れる覚悟が出来ていたりということに気づきます。やはりそれは日頃から挑戦し続けていた李、いったい何のためなのかと意識を持ち続けていたりと、視座と努力の積み重ねであることに気づきます。どんな時も心を拡げ、素直な自分であることを優先していきたいと思います。
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「守り方」にもいろいろあります。常に近くにいて護衛することもそうですが、お寺の「仁王像」や神社の「狛犬」、あるいは、密教における「結界」のように、なかに魔を入れないという守り方もあります。「安心していられる」のは守られているからですが、なかなかその守り神の存在には気づきません。改めて、たくさんの眼で守られていることを自覚しておきたいと思います。
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「こんなに楽しい現場は…」という職人さんの言葉を聴き、楽しく豊かな現場であれたことが嬉しく思います。以前、左官さんは「ここの現場は一部ではなく全体があるからいい」というようなことをお話しされましたが、今回の瓦葺きは確かに伝統工法ではあったものの、そのやり方以上に、この日本的であろう和やかな雰囲気と取り組み自体が伝統の上にあったように感じられます。それを思うと何を伝承していくのか、そこにはまだまだ観えていない世界があるように思えます。