実践とは継続をすることですが、継続するのは目的を忘れないということでもあります。何のためにやるのかということが明確であり、そのために努力する人は自然体で日々に精進していくことができます。しかしこの目的がはっきりしていない人は、終わらせることが目的になったりしていますから何かが終わればすぐに気が抜けて継続が止まってしまいます。
目的がはっきりしていないから、楽になりたくなるのであり、楽になりたいために終わらせようとします。目的を忘れ頑張れば楽になると頑張っていけばいくほど、早く終わらせて楽になりたいという欲求にかられていくものです。
よく理由も精査せずに、やりたくないことをやらされてきてそれに抵抗して頑張ってきた人ほどこの終わらせたいという気持ちは強くなるのかもしれません。しかし少し考えてみれば分かりますが、この世の中に終わるものなどはないことがわかります。
太陽が毎日沈み、翌朝出てくるように寝て起きれば朝がくるようにこの世は循環して終わることはありません。これは死ねば終わりと思う人もいますが、植物のように枯れてもそれは肥料になって次の代の生になりますから人間もその人が周囲のための甦生循環の一つになります。
それなのにいちいち終わらせてしまっては、繋がりが途絶えてしまうからご縁が分からなくなるだけではなく内省して学ぶ循環が途切れてまた同じことばかりをしているような気持になってより疲れてしまうのです。
本来、終わりなどはないのだから継続するというのはつながっているものを辿っていると思ったり、これがどのような好循環になっているのかを思いその循環をより活性化していくためにその出来事は一つのプロセスだと思うことです。
そのように意識が切り替わるのならば、継続することが当たり前になっていきます。やったりやらなかったりするのは、すべてはつながって存在するということを自覚できていないからです。周りをみては、評価を気にし、みんなの期待や失敗や挫折を気にするからそれを終わらせようとして評価されるまでを頑張ろうとしますがそんなことを繰り返していたら不安と恐怖で新しいことをやることが楽しくなくなってくるかもしれません。
なんでも終わりばかりを気にするのではなく、これは始まりなのだと意識を変えるだけで継続することができるようになります。終わらせることが目的ではなく、目的は続いているのだから常にはじまりであると実践していくことが、楽ではなく楽しいを選んだことになります。
楽を目指して頑張る人と、楽しいを味わい努力する人では一生の間にとても大きな生き方や生き様の差が出てきます。それは人生の磨き方が異なるからです。どうせ磨くのなら、早く磨いて終わらせたいではなく磨くことそのものが仕合せだと感じることが自分を玉にしていくように思います。
引き続き継続の面白さ、「はじまりの有難さ」を感じながら子ども第一義の実践を味わっていきたいと思います。
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「継続」していると、いつの間にか「やることが目的になってしまう」ことがあります。「やめなければいい」のです。また、そうなると、「さっさと済ませてしまおう」という発想にもなりやすくなります。結局、「マンネリ」や「惰性」は「目的を見失った姿」です。「続ける」というのは、「続きをやること」ではなく、その本質は、「一回一回を新鮮な気持ちで丁寧にやること」であり、「毎回を新たに始めること」なのでしょう。
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やっていることは同じであってもそこに新たな面白みを見つけ、やってみる。端から見たら同じことをしているように見えても、本人からしたら大きな変化でそこには充足感もあります。新たな価値を見出すことほど面白いことはありません。見つけられない時は一つのサインとして、何のための実践かを振り返っていきたいと思います。
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改めて自分自身については、自らの人生を自ら生きているか、後悔はないかを思い返して内省して行きたいと思います。また昨日のセミナーでの講演で、職員の意識や刷り込みに対して、その人がそうなりやすい環境があるのではないか、子どもに対してと同じく、三省の実践はどうか。という話がありました。聴いているか。聞きたいように聴いていないか。その言葉にハッとしました。人の刷り込みや性格を変えることではなく、環境を変える実践を自分自身は怠っている事を実感しました。聴いているから終わらないのであり、環境を変え続けるから終わらないのかもしれません。頂いた学びを今日から実践に変えて行きたいと思います。
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どのような事でも、次に繋がらなかった時そのものは終わってしまうように思います。次に繋がるサイクルが行われていなければ、例え物事が続いていても、続けられてはいないのかもしれません。新たなものを始める時ほど起きた出来事を全て活かして次にどのようなアイディアを試していこうかと挑戦していきたいと思います。