老いというものがあります。仏陀の説く生老病死の中の老いは、人間だけではなくすべての生き物が宿命的に備わっているものです。その老いというものは、経年によっていのちの変化していく様のことです。人間も若いころは考えもしないことを、歳を経ることによって次第に老いを意識するようになります。
つい年齢の刷り込みを受けることによって、私たちは歳をとるイメージを勝手にもってしまうものです。20代はこう、30代はこう、50代はこうで、80代はこうだと誰かが勝手に決めた平均年齢での状態を誰かに常識を刷り込まれ思い込んでいるものです。
しかし実際には、身体機能などは衰えてきたとしても武道の達人や芸術家の極みの人物のように無駄な動きが全部とれて自然体になり万物すべての力を活かす能力を持てるような人もいます。若いからいいのではなく、極まったから価値があるのでありそこに年齢はあまり関係がありません。
ただし年々の修行において、余計なものが磨かれてそぎ落とされていく中で余裕が生まれその余裕によって老境に入ります。
若いころに分からなかったことが経年変化をすることで次第に気づいていくという歓びと仕合せは、老いによって気づけるのかもしれません。
そう考えてみると、若いころはできるようになったことが喜びであり一つ一つできることに幸福感を味わいました。老いていけばこの逆にできなくなることが喜びになり、それが一つ一つそぎ落とされていくことが幸福感になっていくのでしょうか。
今の私にはわかりませんが、老いることで顕れる歓びを探している途中です。
昨年より古民家甦生に取り組むことで、何十年前も何百年も使われていたものに囲まれる暖かさや懐かしさの中で味わい深い時を楽しむご縁をたくさんいただきはじめました。そこでの学びは心の余裕ともいうか、真善美の持つ豊かさともいうべき妙味を感じる時間のようなものです。
そこでは一杯のお茶を炭を熾し立て静かに縁側にいて四季の流れを眺めるだけですが、そこには確かに老いる中でのみ感じられる経年変化の心の素晴らしさがあるような気もします。
自然を見つめ、自然と一体になり、自然体に近づくために老いに素直に向き合っていきたいと思います。
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老いというと世間一般的に身体的なことが言われますが論語の為政編に、「吾十有五にして学に志す。…七十にして心の欲する所に従うて、矩を踰えず」とあります。生き方から考えると、自分はどのような歳の重ね方をしているだろうかと感じます。その時々にしか感じられないものがあると思うと、今というこの時を大事にしていきたいと感じます。
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「少年老い易く学成り難し」と言いますが、老いていく速さは、老いてみて初めて痛感します。しかし、老いることは悪いことばかりではありません。ものが見づらくなったり、身体が言うことをきかなくなる悲しさはありますが、それは、「心技体」のバランスが変わっていくに過ぎず、自然と諦観を得ることもできます。また、時代についていけなくなって、逆に流行を追わなくなり、本質が見えてくることもあります。「老後の初心」を忘れず「老いて学べば死して朽ちず」という世界を目指したいと思います。
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ベテランということも老いの1つと考えれば、若手や次の世代も大切にしたいと感じてもらえる働き方を残したいと感じます。理念と今いる人、どちらも耳を傾けて今何をするべきなのかを考えてみる事が大切だと感じました。また老害にならぬよう、今の目先の利益ばかりでなく、長い目での動きを大切にして行きたいと思います。
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「おとこざかりは百から百から」「九十百歳熟れ盛り」など、言葉だけでも矍鑠とした様子が伝わってくるようです。ホースの口を窄めれば水の勢いは益々増すかのように、全体から観たら衰えた分勢い付く部分もあるのかもしれません。若さも老いも意味があり善いも悪いもないという視点をもっていきたいと思います。