人間は一生の中でもっとも大切なものを持つのに「志」というものがあります。これは生き方のことで、生まれてきた以上どのような生き方をするかと決心するようなことです。
よく夢と志を混同されていますが、夢は願望のようなものであり志は信念であるとも言えます。同じ夢を観るにしても、志があるのとないのではその夢は野心や野望にもなります。しかしひとたび志が立つのならその夢は、自分の欲を超越した公のものになっていきます。
ちょうど昨日、テレビのドラマで「陸王」という番組が放映されていました。その中で足袋会社の社長が、1億円の借金をしてでも新しいシューズを開発するかどうかの岐路に立たされます。その中で、周りの人たちからどうするのかを尋ねられます。その際、社長の「できるならば、、」という言葉に、その程度なのかと周囲は幻滅して一人二人とその人から離れていきます。
人は誰かと何かをやろうとする時、どこまで本気かどうか、そこまでしてでもやるかどうかを確認するものです。それは自分のいのちを懸けるだけのものがあるか、自分の人生を懸けるだけのものがあるのかを確認するからです。
結局は、生き方や人生を迫られるとき人は悔いのない選択をしたときにこそ志が試され、その覚悟を決めた時に志が立つのです。
以前、大河ドラマの中で「あなたの志は何ですか?」と吉田松陰が弟子たちに問いかけるシーンがあります。これは、あなたの覚悟は何ですかとも言い換えることができます。
そこで先ほどのように「できることならば、、」というくらいでは、それはまだ立っていないといえます。私はこれを何がなんでも実現する、そしてそれが世界人類、またはすべての存在に対して貢献することを信じるというものがでた時、その人の志が立つと思います。
その志は、事あるごとに試されます。つまりどこまで本気なのかと、果たして全身全霊だったかと、自分自身に迫ってくるものです。できればいいかなくらいの気持ちは、本気の勝負の時にその人自身が自滅する原因になります。だからこそ周囲は、その人がそうならないように本気を試し確認してくるのです。
孟子に「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、その体膚を餓やし、其の身を空乏し、行ひ其の為すところに払乱せしむ。 心を動かし、性を忍び、その能はざる所を曾益せしむる所以なり」があります。
これは志を立てるために天が敢えて試練を与えるということでもあります。
天理は不思議で、何を拠所にして何を中心に自分を立てるかが決まらない限り手助けが借りられない仕組みがあるように思います。いつまでも自分ばかりを握って自分の個人のことに執着し固執していたら志は倒れるばかりです。
子どもたちのためにも、立志を磨き続け悔いのない人生を歩んでいきたいと思います。
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「条件を見てから、やるかやらないかを決める」ということがありますが、これは、発想が逆です。「どうしてもやりたいことかどうか」が問題です。「条件が揃うからやれる」のではなく、「ほんとうにやりたいと本気で取り組むから、条件が整ってくる」のでしょう。そのためには、どこまでも「志」を持ち続けることが必要です。その姿勢に応じて、他力が働くのではないでしょうか。
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昨年、立志の時間を設けそれぞれの志を語りましたが、あれから自分はそこへ向かい前進しているだろうかと感じます。夢や願望も混ざっていたかもしれませんが、形はどうあれ子どもたちのために自分を使う生き方を目指していきたいと思います。
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命をかけるという言葉は意識してみないと実感はありませんが、今も命を使っているわけであり、昨日も使っていることを思うと、今日1日を何に使うか、何のために使うかということを考えて行きたいと思います。
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常に試され続ける中でいよいよ堅くなるのが志というものだと思えば、一度決めれば立つなどという簡単なものではないことを感じます。以前あるクルーが「営業は初心を確認できるいいもの」と言っていましたが、伝えるということを通して自分自身に向き合い、それでもやろうと意を決していく積み重ねこそ生きることなのかもしれません。命をかける程の思いを持ってこの生を生き切りたいと思います。