先日から坐骨神経痛になり、急に歩くことができなくなりました。寒くなってくると、筋肉が収縮し今までと異なる場所に力が入りすぎるようになり全体のバランスが崩れることで神経を損傷することがあるといいます。
改めて歩けなくなると、日ごろ当たり前にできていることが如何に有難いことか気づきます。ちょうど自宅を掃除する機会だと思い、整理整頓していると以前神社で見かけた「生命の言葉」という紙が出てきました。そこには「それいけ!アンパンマン」の作者のやなせたかしさんの言葉が紹介されていました。
「健康でスタスタ歩いているときには気がつかないのに、病気になってみると、当たり前に歩けることが、どんなに幸福だったのかと気づく。幸福は本当はすぐそばにあって、気づいてくれるのを待っているものなのだ。」(明日をひらく言葉 PHP文庫)と書かれます。
そして表紙には「ごくありふれた日常のなかに、さりげなく、ひっそりと、幸福はかくれています」と、これはとても含蓄があり深い味わいのある言葉だと思います。
私たちはみんな誰にしろ幸福というものは隠れています。生きているだけで、ありとあらゆるものに恵まれ私たちは日々の暮らしを営んでいます。この体も五感も心も、すべては天からのものであり、さらに広げればこの空気も太陽も水も宇宙もすべて私たちは存在そのものに活かされます。
幸福ばかりをもとめて足るを知らず、恩恵を省みず当たり前のことのように感じていれば幸福は逃げていくばかりです。幸福は、気づかないところ、隠れているところ、ひっそりとしているところ、そこを見つけてほしいと待っているように思います。
つまり幸福の本質とは、足るを知ることにありいただいている恩恵を見つける心にあるとも言えます。
当たり前のことの中にある幸福に気づかせてくださるように、天はありとあらゆる機会を私たちにあたえてくださいます。そう考えれば、この機会もまた恩恵であり気づくことで幸福感を味わえます。あたりまえができなくなることは決して不幸なのではなく、当たり前に気づけることが幸福だと実感できる自分でありたいものです。
子どもたちに見せる背中として、そういう幸福の姿を譲り遺していきたいと思います。
コメント
社内に、花器に活けられた一輪挿しのチューリップがありました。花壇にたくさん咲き誇る美しさもありますが、活けた人の想いを馳せると花の美しさ以上のものを感じます。やなせさんが「幸福は本当はすぐそばにあって、気づいてくれるのを待っているものなのだ。」と言うように、本当はそばにあるのに、自分はそれをどれだけ待たせ、そして気付けているだろうかと思います。身の廻りの全てが自分に語りかけ、何かに気づかせようとしていると思うと、全てが先生です。その声に気がついたら変わっていける自分でありたいと思います。
コメント
当たり前だと思ってしまうと、なかなか感謝しにくいものですが、それは、「与えられている」という前提が受け入れられていないからでしょう。当たり前のことほど、「有り難いこと」すなわち、本当は「奇跡である」という認識が必要かもしれません。「身の回りの奇跡」に気づく度、このいのちの大前提を見直す機会にしたいと思います。
コメント
身近にある幸せ、それは自分で気づくものもありますが、周囲に気づかせて頂くことも多いように思います。それを思えば、周囲にかける言葉は温かく、周囲に向ける眼差しは優しくありたいものです。一円対話の「隣の人のいいところ」や「実践からの気づき」も、そのようなことを感じやすいもの。豊かさに気づける環境を大切にし、それを広めていきたいと思います。
コメント
物事を都合のよいように受け取ることと、感謝を感じるということの違いを混同してしまわぬように居たいと感じました。頭で解釈できてもわかるものではありませんが、体験できる自分の使い方を模索し、体験から学んでいきたいと思います。