先日、自由の森学園の音楽祭を見学する機会がありました。2日間に渡る音楽祭は、初日は生徒たちの有志によってそれぞれに自己表現を楽しんでいました。2日目はクラスや学年別、全校生徒による合唱が行われています。
生徒たちがそれぞれに楽しそうに音楽を奏でる姿に、学校の雰囲気や子どもたちの成長の様子なども表現されていました。音楽を奏でるというのは、それぞれの自己表現を楽しむということでもあります。自分らしく主体的に楽しく取り組んでいる姿がそれぞれの音として顕れ、その音楽に乗っかることでさらに主体性が引き出されていく。音楽は子どもたちの主体性を揺さぶるひとつの仕組みかもしれません。
人間はそれぞれに自分の人生があります。それは誰かと比較したり、誰かのようになろうとしたりしても意味がなく、それぞれに与えられた自分の人生があります。それがどのようなものであれ自分の人生なのだからその人生を謳歌することが仕合せであり、その謳歌したものが音楽として全体に響き渡ります。
ひょっとすればその人生は成功かもしれないし失敗かもしれません。しかしそれは他人が勝手に評価するもので自分自身がどう思うかとは別の話でもあります。
音楽というものは、どのようなものであっても楽しむということやどんなことも善いことへ転じるという人生への逞しい意志を感じます。歌を歌う人は、その背景に人生を力強く生き、その転じられたものを表現するときそれぞれが実感した人生の音を奏でていきます。
どのような音を奏でるか、どのような声を発するか、その人の人生が丸ごと歌になっていることを思えばその人生を如何に楽しむかが何よりも重要だと私は思います。
人生の大切な時期に、学校に入り、仲間と語らい、人生の大切な意味を知る。
音楽もまた自由を学ぶための大切な仕組みの一つです。深めたものを実践に活かすためにも、新たな仕組みを創造していきたいと思います。
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学生時代同じようにクラス一丸となって合唱祭をしましたが、彼らの様子を見るとまるで行なっていることは別物です。やらされ、歌わされ、不仲になる。そんな自分の頃を思い、自己表現の一つからも校風が表れているように思います。高等学校指導要領の音楽Iの目標に「音楽の幅広い活動を通して,生涯にわたり音楽を愛好する心情を育てるとともに,感性を高め, 創造的な表現と鑑賞の能力を伸ばし,音楽文化についての理解を深める。」とあります。彼らの奏でる表現には、要領に書かれている大人が思っている以上の表現がなされていると感じます。
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人間の言動、活動はすべて何らかの「自己表現」と言いますから、「仕事」も「芸術」も「暮らし」も、どれもが「自己表現の場」であると言えるでしょう。そう考えると、「今の自分」や「今日の相手」が、どのような自己を表現しているか?!に興味が湧きます。その中でも「音楽」というのは、直接的な「波動」ですから、また特別です。「音」を通してどのように自己を表現するか?!楽しい音や優しい音を奏でられるようでありたいものです。
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中学、高校を振り返ると授業の中の与えられた課題曲と自分が感じてしまうと何故か変な真面目さや評価に対する気持ちが生じた様に思います。しかし、いざ文化祭でバンドをやろうとなると急に音楽を楽しみ、熱中し、自分の感性や腕前を信じられるようになるのは不思議だと感じます。子どもたちのお楽しみ会でも、自らの自由な枠が多いものほど、本人が輝いているのを観ると、やはり用意の仕方、受け取り方で世界は変わるのだと感じました。自分の受け取り方も、周りへの環境作りも、楽しめる感性を大切にしていきたいと思います。
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自由を意識するよりも、その仕組みの中に入れば自然と自由になってしまう、そんな文化の一つとして音楽が根付いているというのは素敵なことだと思います。教えない教育、人を育てるよりも自然と人が育っていく環境や習慣を作ること、など大切にしている思いはあっても、まだまだ仕組みになっていないものも多いことを感じます。伝承していけるよう、仕組み作りという視点からブレないようにしたいと思います。