人生には自分の思っていた通りになるものと思い通りにならないこと、思いもつかなかったことがあったりするものです。生きていく中で、色々と願望が固着し思いが重たくなってくるとその願望に執着して諦めることができなくなることもあります。
しかし本来は、目的を失うわけではないのだから手段は無数にあっていいわけで私たちはその手段を変えていくときに葛藤があるのかもしれません。言い換えれば、今までできたことができなくなることへの不安感であったり、今までその手段でやってきたことができなくなることへの心配が手放す勇気を減退させてしまうのかもしれません。
前に進んでいくためには、いろいろなことを手放していかなければなりません。それまでできたことが、新しいことをやろうとするとできなくなる。新しいことをやるために過去の手段を変えていこうと冷静になればいいのですがこれまでやってきたことはなかなか簡単に捨てることができないのです。
例えば、健康などもそうですが怪我をしてみて今までできたことができなくなるとそれまでできていたことがなかなか諦めることができません。なんとか元に戻ろうとしますが、元通りにはなりません。リハビリをしながら、新しいやり方を身に着けていく必要があります。ひょっとすると、元にやっていた時よりももっと上手にできるようになるかもしれません。しかし元通りになることに執着すればするほどに過去の習慣が手放せず変わることができなくなるのです。
人生の中で前向きに諦めるときは、目的を達するために他の手段を考えようと諦めないと気です。ある部分は諦め、ある部分は決して諦めない。この諦めると諦めないの間にこそ諦観があります。
この諦観とは、辞書には「 本質を明らかに見て取ること。」「 悟りの境地にあって物事をみること。」と書かれます。
思い通りにいくことが目的を達する道ではなく、どんなに思い通りにいかないことがあったとしても目的を最期まで失わないこと。人生はどんなことが起きるかわかりませんから、その中でも目的を失わなければ色々なやり方があるという中に本当の可能性が隠れているかもしれません。
なんでもできるという可能性と、できなくなって明らかになる可能性。
前向きに諦めることの本質は、流れに逆らわずに我を手放し来たご縁をすべて活かしていこうとすることのように私は思います。
気づく感性を高め、何かを見落としいなかったか、無理をしていなかったかと、内省を深め、さらに一歩一歩前進していきたいと思います。
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「諦める」とは明らかに認めることだと、誰かが言っていましたが、受け入れている強さは計り知れないものを感じます。論語に「七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」とありますが、自分はまだまだその境地に遠く及びませが、目的を達成するために手段を変える柔軟性はあっていたいと感じます。他の人の意見を聞くことで視野も広がり、もっと面白いものが生まれます。ブレストにはいろいろな効果がありますが、自分自身の考え方に固執することを諦めていくことなのかもしれません。決して諦めないという気概も同時に大切にしていきたいと思います。
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「諦める」というのは、感情的な感覚で「断念する」という感じですが、「諦観」というのは、ものごとの本質が明らかになることで「執着する必要がなくなる」ということではないでしょうか。それでも「執着が残る」というのは、結局、まだわかっていないということでしょう。「自分が何を手放せないでいるか?!」をヒントに、探求すべきことを見極めていきたいと思います。
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前向きに諦めることは、植松さんの「どうせ無理」ではなく「だったらこうしてみたら」と自分に言葉をかけてあげることのようにも思えます。一つの視点、一つの価値観でものを見ていたら限られてしまうことも、聴いていくことや省みることで可能性は拡がっていくものと、自分自身にも周囲にも声をかけていけるようになっていきたいと思います。
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今、息子が4年間やってきたスポーツをきっぱり諦めて方向転換するのか、諦めずにもがきながらも続けるのか迷いの境地にいます。楽しいから苦しいけど楽しいへ…その後怪我などから今はもう苦しいのみで、親が見ていても苦しくて、楽にしてあげたい気持ちでいっぱいです。そのスポーツ自体は好きなので、趣味として携わって、別の生き方を探すの1つだと思いますが…
執着のみで、脱け殻のように続けてる今、手放す勇気を持って、新しい一歩を踏み出してほしいのがおやの思いです。