古民家甦生を通して古いものに触れる機会が増えています。この古いものというのは、いろいろな定義があります。時間的に経過したものや、経年で変化したもの、単に新品に対して中古という言い方もします。
しかしこの古いものは、ただ古いと見えるのは見た目のところを見ているだけでその古さは使い込まれてきた古さというものがあります。これは暮らしの古さであり、共に暮らした思い出を持っているという懐かしさのことです。
この懐かしさとは何か、私が古いものに触れて直観するのはその古いものが生きてきたいのちの体験を感じることです。どのような体験をしてきたか、そのものに触れてじっと五感を研ぎ澄ませていると語り掛けてきます。
語り掛ける声に従って、そのものを使ってみると懐かしい思い出を私に見せてくれます。どのような主人がいて、どのような道具であったか、また今までどのようなことがあって何を感じてきたか、語り掛けてくるのです。
私たちのいのちは、有機物無機物に関係なくすべてものには記憶があります。その記憶は思い出として、魂を分け与えてこの世に残り続けています。時として、それが目には見えない抜け殻のようになった存在であっても、あるいは空間や場で何も見えない空気のような存在になっていたとしてもそれが遺り続けます。
それを私は「いのちの物語」であると感じます。
私たちが触れる古く懐かしいものは、このいのちの物語のことです。
どんないのちの物語を持っていて、そしてこれからどんな新たないのちの物語を一緒に築き上げていくか。共にいのちを分かち合い生きるものとして、私たちはお互いの絆を結び、一緒に苦楽を味わい思い出を創造していくのです。
善い物語を創りたい、善いいいのちを咲かせたい、すべてのいのちを活かし合って一緒に暮らしていきたいというのがいのちの記憶の本命です。
引き続き、物語を紡ぎながら一期一会のいのちの旅を仲間たちと一緒に歩んでいきたいと思います。
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誰かが使っていたものを譲り受けて使ってみると、その人が「どれだけ大事に使っていたか」「どれだけ愛着を持っていたか」ということはわかります。逆に、大事にされなかったものが「悲鳴をあげているように感じる」こともあります。私たちは、「ものを使う」という視点しかもっていませんが、「もの」には、「使い手」の性格や感情の起伏、そして、生き様という歴史が刻まれているのでしょう。
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「聴福庵」には全国各地から縁あって一緒に暮らす道具があります。あの空間にあると違和感なく、昔からあるような錯覚さえしてしまいますがつい最近なことに驚かされます。「聴福庵」という空間で捉え全体で見ていて、まだまだ一つ一つのいのちの物語を分かっていません。眼差しを変え一つ一つをしっかり見て知っていきたいと思います。
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今日、ときめきムービーを見返してみるだけで、懐かしさを感じました。そして同時に、作られた動画が、またこの機会に使われることに喜びを感じました。パソコンの中でほこりをかぶっていた動画が、活かされることの喜び。改めて、自分のパソコンの中だけに置いておくことのデメリット、介していくことへの視野の狭さを感じる一日となりました。今年、ときめきムービーもYOUTUBEという開かれたプラットフォームに移行が始まりましたが、ソフトサポートについても改めてその視野で考えていきたいと思います。
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カタチとして目に見えるもので遺っているものは、そのものに触れ共に過ごすことで体感できるものもあるかもしれませんが、先人の思いやりや自分たちの中に知らずのうちに受け継がれているものなどは、なかなか日頃は感じられないもののように思います。古いものは内にも宿っているということを忘れないようにしたいと思います。