聴福庵の離れのお風呂がほぼ完成し、一緒に井戸を掘った仲間たちにも体験してもらいました。苦労が報われる瞬間というか、努力してきたことが実る仕合せを感じながら皆と味わい深い時間を過ごすことができました。
振り返ってみると、長い時間をかけて手間暇をかけて一つ一つを丁寧に丹誠を籠めて取り組んできたことは努力だったように思います。その努力は、決して報われようとして取り組んでいた打算的な努力ではなく、本心から家が喜び、子どもたちが日本の伝統文化に触れる仕合せのためになるようにと祈りながら取り組んできた努力です。
寝ても覚めても、ああしたらいいのではないか、こうしたらいいのではないかと工夫して失敗しても上手くいってもいかなくてもそうか、次はこうしたらいいのかと葛藤しながらも楽しかったように思います。
この時の楽しいは、決して感情が楽しいというものではありませんでした。どちらかというと没頭していくというか、そのことだけに集中して苦労を厭わないというかんじでしょうか。
つまりは苦労の中にある楽しみとは、単なる嬉しい楽しいなどいう日ごろに感じているものとは異なり奥深いものです。つまりは苦しみそのものの中にいる仕合せというか、試行錯誤しながら寝ても覚めても取り組んでいる努力のことをいうのではないかと感じるのです。
努力といえば、王貞治さんのことを思い浮かべます。一本足打法の猛練習の努力のことは有名ですがこういう言葉を残しています。
「努力しても報われないことがあるだろうか。たとえ結果に結びつかなくても、努力したということが必ずや生きてくるのではないだろうか。それでも報われないとしたら、それはまだ、努力とはいえないのではないだろうか」
というものがあります。後半の「それはまだ、努力とはいえないのではないか」という言葉は、努力の本質を語っていることが分かります。
努力とは血がにじむようなものであり、また自分自身を削り取るようなものであることがわかります。しかしそれを頭で理解すると、ただ苦しく辛いだけのように感じますが実際はその苦しみの中にこそ真の楽があり、それが「努力の楽しさ」というものです。
つまり努力が楽しいと思えてこそ、本当の努力になっているということ。
努力そのものや努力することが楽しいとなっているのなら、先ほどのように寝ても覚めてもになるのです。この寝ても覚めてもこそが、楽しいのであり感情的には葛藤や苦しみがあったとしてもまた寝ては朝起きたらあの手があるやこの手があるなど、考えるのを已めずにまた挑戦しているということです。
人生は、この努力の価値を知る者だけが本当の成功を知るのかもしれません。成功者になりたいのではなく、努力することの仕合せを知ることが努力の跡に顕れる奇跡に出会う方法かもしれません。
苦労が報われるのは、それによって努力できた価値を再確認するからです。努力を振り返ることは仕合せを感じ直すこと。真苦楽こそが道楽のことです。引き続き、子どもたちのその努力の価値を伝道していきたいと思います。
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お風呂に浸かっていると感慨深いものを感じます。湯の温かさをより一層感じさせるのは、そこに多くの方の顔が浮かぶからに他なりません。自分などほんの些細なものですが、多くの方のご協力の賜物である離れには、格別の想いを感じます。王さんのように勝負の世界に身を置き、自身を磨き続ける努力にはまだまだ遠く及びませんが、子どもたちの未来を想ったとき、今なさねばならないことがあることを感じます。職人さん方の結晶を子どもたちへ伝承していけるよう、精進していきたいと思います。
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「自分はこんなに努力しているのに!」と言いたいときは、たいてい苦しく、うまくいっていません。それは、その努力の方向性が違う、目的が違う、あるいは、まだ努力と呼べるレベルではないということでしょう。努力と思ってやっている間は、まだ何かが違うようです。また、「何かを得るために努力する」のと「がんばった結果、何かが得られる」のとでは、意味が違います。「努力」という言葉を忘れて目の前のことに没頭したいものです。
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なんにでも楽しみを見出して努力できる人というのはとても素敵だと感じます。自分の興味関心のあるものに没頭するのではなく、目の前の出来事に自分の興味関心を見出せることの方がよっぽど重要なのだと感じます。いつまでも自分中心の考え方や関わり方ではなく、頂いている機会を大切にしていきたいと思います。
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努力というと「雨垂れ石を穿つ」という言葉が思い出されます。軒より落ちる雨垂れが永い時を経て大きな穴をあけるのは何の作為もなく自然の力なのだと思えば、努力とは人間が自然に近づこうとすることなのかもしれません。楽してすぐに穴をあけるには不自然な力が必要であり同時に努力から遠ざかる。昔の日本人が勤勉で努力家が多かったのは自然に親しんでいたからのようにも思えてきます。