自然の篩

私たちは無意識に様々な出来事の中から選択してきたことで今につながっています。それは諺にもある「篩にかける」ということを行っているように思います。この篩というものは粉・砂などの細かいものを網目を通して落とし、より分ける道具のことです。

この篩(ふるい)というものは、古いと同じ韻ですが「ふる」は「経る」からきているものです。経年していくなかで、朽ちず残るものが篩にかけられたものともいえます。そしてこの篩は民具の中でもとくに重宝され、長く人間に用いられてきたことが分かります。

篩にかけるというとき、本当に遺るものだけを選別するという意味になりますが篩にかけられるとなると、本当に遺るもの以外は選別されるということになります。

自然や時間というものは、自然に適っていないもの、真理や道理、法理に合わないものは自然淘汰していくものです。この自然淘汰とは、篩にかけられることであり理に適っていないものは消えていくということになります。

その篩は、人生においては死して名を残すものであったり、徳であったり義であったりと、それまでの体躯はたとえ寿命で失われても篩にかけられて遺ったものがカタチとなって顕れるのです。

長い目で物事を観るとき、現代まで古から遺ったものは自然淘汰の篩にかけられても消えなかったものです。それは人間も同様に絶滅していないのだから篩にかけられて遺った存在だともいえます。

しかし短期的に物事を観るのなら現代にあるものは自然淘汰されるものばかりであり、遺らないとわかっていてもそこにしがみ付いてしまうのはこの篩にかけることをしなくなっていくからではないかと私は思います。

身のまわりをよく見つめ、何百年も続くものは何があるのか、そしてすぐに消えてなくなっていくものは何なのかと、自然淘汰の理をみつめていけば自ずから自分が篩にかけられないように自らの篩を身に着けていく必要があると私は思います。

私が取り組んでいる自然農の古民家甦生も初心伝承も、私にとっては自然の篩です。

引き続き、信念をもって時代のなかで篩に残るようなものを子どもたちに譲り遺していきたいと思います。

 

  1. コメント

    「自然淘汰」というのは、結局、「自然の篩にかけられた結果」ということでしょう。ただ、この篩は、ひとつではありません。時代という篩、進歩という篩、時間という篩など、いろんな篩にかけられても残ったものです。100年経てば、1000年経てば、自ずと結果はわかりますが、その「篩にかける智慧」を人間が持てるようになるかどうか、そこを問われているのではないでしょうか。

  2. コメント

    松陰神社に参拝をし、これまで話や本、大河ドラマで見聞きする機会がありましたが実際に自分の目で見てみるとより一層感じ入るものがあります。明治維新から150年という年を経てもなお、生き方が残っているのを見ると死してなお、生き続けていることを感じます。自然の篩は、短期的に見る弱肉強食の世界ではなく、自然に適ったものが最後まで生き続けることを思うと、子どもたちへ遺していきたい未来に向かい、自然に沿った生き方を目指していきたいと思います。

  3. コメント

    自分という存在や個性は様々な機会という篩にかけられているのだと感じます。多様性を帯びたこの時代の中で、篩自体も多様化してるのかもしれません。そう思うとどんな篩も自分のことを教えてもらえる為の多角的な篩として昔よりも大切な存在のように感じます。こんな時代だからこそ、様々な篩を知り、己を知り、天命をいることも重要なように感じました。一つの篩に拘らず、機会という篩を大切にしていきたいと思います。

  4. コメント

    昨日は妻が食欲のない体を気づかい七草粥を作ってくれました。出汁をとるという文化も七草を食することも今は廃れてしまいそうな文化ですが、本当に必要なものは体がわかる、それは自然なことのように思えます。人間が篩をかけようとしてこの一時にあらゆるものが消えそうな状況ですが、発酵の智慧をはじめ自分自身がまず本物に触れ近づいていきたいと思います。

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