今年も無事に萩にある松陰神社に参拝し、松下村塾を深めにいくことができました。もうかれこれ24年間、毎年通っていますが毎回新しい発見があり、吉田松陰の創造した学問や学校のカタチが如何に普遍的であったかを感じ入るばかりです。
あの当時、共に学んだ志士たちの生き方はわずか松下村塾での学びが1年であったにもかかわらず心に響きその後の若い人たちや子孫へと影響を残しています。
私の憧れた学校、憧れた学問、憧れた組織を先に実現していたこの松下村塾と吉田松陰は一つのロールモデルとして私が初心伝承の経営をする上でもっとも参考にしています。
自分が実践してみて一年たち、またここに来る。それを繰り返しながら、近づいていく努力をさせていただけるのは本当に有難いと思っています。その吉田松陰の生き方だけではなく、ここで創造した場を如何に甦生するかは私の人生の課題の一つだと信じています。
昨日は何度も見学した施設があったのですが、改めて目に入ったものがありました。それは松下村塾の教育方針と書かれたものです。これは今、私が仕事で「共に学ぶ」というある学校のコンサルティングを受けていますがとても参考になります。そこにはこう書かれます。
『松下村塾には「三尺離れて師の影を踏まず」というような儒教的風潮は全くなかった」師弟ともに同行し、共に学ぶというのがその基本的方針であった。松陰はその考えを、安政五年「諸生に示す」に書いている。「村塾が礼儀作法を簡略にして規則もやかましくいわないのは、そのような形式的なものより、もっと誠朴忠実な人間関係をつくり出したかったからである。新塾がはじめて設けられて以来、諸君はこの方針に従って相交り、病気のものがいれば互いに助け合い、力仕事の必要の場合はみんなが力をあわせた。塾の増改築の時に大工も頼まず完成させたのも、そのあらわれである」とした。』
現代においてもっとも先端をいく学校が学問のカタチは「共に学ぶ」ことだと知られていますが、単に知識だけを教え合ったのではなく一緒に真剣に生きて学び合った形跡が松下村塾には残っています。
生き方を通して学び合う関係というのは尊いもので、深く相手のことを尊重しているからこそはじめて共に学び合うことができるように思います。それはご縁を大切にや、一期一会などの言葉もありますがもっと偉大な生きていく姿勢そのものが純粋であったからこそここまで共に学ぶ形が顕れたようにも思います。
そしてその思いが純粋であったjからこそ常識に囚われず師弟共に学び合い、自分自身を確立させていきました。なぜそこまでこの村塾に魅力があったのか、吉田松陰のこの言葉からもうかがえます。
『教えるの語源は「愛しむ」。誰にも得手不手がある、絶対に人を見捨てるようなことをしてはいけない。』
お互いの持ち味を活かし、不得手もまた愛し、得てもまた愛し、それぞれがそこで活かし合えるように互いに見守り仲間として受け容れてくれていたように思います。この村塾は、塾生たちにとっては魂のふるさとであり、自分が天命を生きることを見出すための道中の安心基地だったのでしょう。
「世の中には体は生きているが、心が死んでいる者がいる。反対に、体が滅んでも魂が残っている者もいる。心が死んでしまえば生きていても、仕方がない。魂が残っていれば、たとえ体が滅んでも意味がある。」
魂が大事だというのは、人生の意味そのものだからです。
最後に、こう塾生たちに言い遺します。
「人間が生まれつき持っているところの良心の命令、道理上かくせねばならぬという当為当然の道、それはすべて実行するのである。」
誰がどういおうが、常識から外れていると罵られようが、道理上やらねばならぬというものは必ず行えというのが生き方です。
引き続き、今年も心魂を定めて社業に専念していきたいと思います。
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森信三先生は、松陰先生のことを「世にこれほど優しい魂が、またとあるでしょうか」と仰っていましたが、松陰先生には、すべての人の魂に「天真」が見え、それゆえ一人ひとりを限りなく愛し、尊重する純粋さを持っておられたのでしょう。学問を深めても刷り込まれない、牢に入っても刷り込まれない、その純粋性に少しでも近づきたいものです。保身のために身につけた余計なものを、一枚ずつ剥ぎ取っていきたいと思います。
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大河ドラマ『花燃ゆ』を観ながら、いつかは行ってみたいと思っていました。今回実際に訪れ、あの場所から歴史が動いたと思うと感慨深いものを感じます。松陰神社で引いたおみくじに、正気歌のことが書かれ調べてみると、このブログの2009年1月4日ヒットしました。この時もきっと、松陰神社へ行かれあの縁側で物思いに耽っていたのではと感じます。そして、今回のブログと同じように心新たにされています。共に学び目指すものを目指していきたいと思います。
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松陰先生と塾生との関係を見ると、そこには批判や評価ではない、「私も教えることはできません。一緒に学びましょう」という共学の精神が根底にあることに気づきます。この共学というのは、とても豊かであるとともに、先生と呼ばれる人々にとってはとても難しいことのように感じます。自分自身も親ですが、教えることはできないから一緒に学びましょうというスタンスを大事にできているかというと、まだまだです。しかし、子どもたちにとっての最善の環境とは?!と考えるほどに松陰先生の姿勢が心に浮かんできます。やはり、自分自身の価値観と行動を変える時期が来ているようです。
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「切磋琢磨は互いに支え合い磨き合う姿なのだと改めて言葉の意味を考えそのような関係を園の中でチームの先生方と一緒に築いていきたい」と、ある園の先生の内省シートにありました。切磋琢磨と言えば競い合い高め合うことのように感じますが、支え合い磨き合うという方が「共に学ぶ」姿に近いように感じます。この支え合うという意味の深さを掴んでいきたいと思います。