人は頭で知識で分かったことがあったとしても、それは他人の知識を借りてきているだけですから知ったからといって本質や真理に気づきそれを会得したわけではありません。
ひとつのことを知ろうとすればするほどに、長い年月がかかりそれを弛まない実践と実行、つまり日々の行動をすることで積み重ねていくうちに次第に達して得ることができるように思います。
人は先に知るというのは、知って理解すればするほどにそれだけわからないことに苦しみます。気づきというものは、知るものではなく気づくものですから知ることは後でいいことなのですが先に気づこうとして知ろうとします。しかし実際には、同じ境地に達するのにはその人がかけた時間や取り組んだ質量、素直さや謙虚さによっても異なりますから簡単にはいきません。それに先に分かってしまったせいで、先入観にとらわれ知識で理解したものをなかなか手放すことができず知識から智慧に転換されるまでにはかなりの行動が必要になります。
この手放すという努力は、行動するという事であり手放せないのは行動できていないからであるときが多いように思います。
知識というものは、そもそもが簡単便利に自分がやらなくてもすぐに使える認識できる言葉の道具のようなものです。誰かのつくった便利な道具は使えても、その道具を作れるかといえばつくることはかなり難しいことです。それに似ていて、知っていても気づいていないというのは道具は使えても本質が分からないという事に似ています。
道具を本当の意味で使いこなすには、その道具の本質を掴む必要があります。便利な道具は応用が利きにくく、昔からある道具は智慧が利きます。これは大工道具一つでも同様に、鉋や鋸なども昔のものの方が腕の善い大工さん、番匠師には重宝されます。
便利な道具で通用しないのは、難しい仕事になればなるほどわかります。だからこそ私たちは借り物の知識ではなく、自分から会得した智慧で勝負するようになります。一流と呼ばれる人たちは、その知識を智慧に転換して気づきを会得している人たちです。
そのためには、知識ばかり詰め込むのではなく行動の質量を増やして失敗から学び直し、その失敗を検証し、さらに挑戦しまた内省し改善するという時間と回数を人並以上に取り組んでいく必要があります。
行動することの価値は偉大であり、気づきや智慧を会得する唯一の方法ともいえます。愚直に行動を起こすことで、他でも気づかなかったことにも気づかされることもあります。
私も多動とか、じっとしていないとか言われますがその分、誰よりも気づきたいことが多く、行動していくことで深まっていく知識が智慧に転換するのが楽しいのです。
引き続き、知識を智慧に転換して子どもたちに学び直しの喜びを伝道していきたいと思います。
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体調が悪くて悪戦苦闘しているときに、「病名」をつけられてしまうと、自分の身体に対する観察力が急に衰えます。同じように、そのものに「名前」をつけたり、「言葉で説明」してしまうと、わかった気になり、「自分で気づく力」が衰えます。ある意味、「何を悟るか?!」ということが「人生」です。その「悟り」とは、「知ること」ではなく、「自分で気づくこと」であり、「自分で発見すること」です。そして「わかった!」と喜べることではないでしょうか。
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漆喰塗りや鰹節削り、一見簡単そうに見てもやってみるとその難しさを実感しています。いくら知識で漆喰塗りのことを調べて知っても、壁を塗れるのとは違います。ここに知識を得ること、知ること、できることでは意味合いが違うことを感じます。そんなことも知らないの?と思われ、知りもしないことを知ったかぶりをするよりも、実体験から語る大人を目指していきたいと思います。
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ロードマップもどこまでを一緒にやるのかと言う時に、知識の伝達ややり方の伝達、在り方の伝達をしても、保育環境や書類環境、職場環境と、今ある環境も一緒に変えていく事に醍醐味を感じ、楽しみを感じます。分かった気にならず、いつも教えていただく気持ちで歩みたいと思います。
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「教えない教育」という言葉に触れましたが、子どもに先にあらゆるものを教えてしまったとしたらどうなるのだろうと思います。自分で何かを発見したような姿は何かキラキラと輝いて観えます。自分自身、自分を含めた無数の誰かの正解めいたものが頭の中を廻ることがありますが、そこに捉われては掴むことは出来ずそれ以上にもなりえないように感じます。興味や意欲の入り口程度で知識はとどめ、実践して気づいていきたいと思います。