人は知識を持つことで知識によってすべてを理解できると勘違いすることがあります。現在、世界では非認知的能力の重要性が教育界でも重要視されるようになりましたが、そもそも非認知とは読んで字の如く認知しないということですから考えたり知識で理解するものではないということです。
つまりは考えないのだから直観ともいい、知識で理解しないのだから気づきのようなものともいえます。こんなことを敢えてブログで説明してもまさにこれも認知ですから言葉で理解するとわからなくなるものです。だからこそ先祖は師弟が同体験や気づきの共有を通して大切なことを伝承していきました。その人の気づきを見守ったのです。
本来、私たちはそれぞれに気づく力を持って生まれてきます。生命は生まれながらにして呼吸をし、成長過程で人間としての生活が送れるのは、生まれる前から持っているものがあるからだとも言えます。
自分たちが生まれる前は一体、どのようになっているのか。そこから気づき直すことが非認知を高めるためには効果があるかもしれません。禅問答の中に「一撃忘所知」があります。
これは香厳という唐の禅僧が、「ゴツンと一撃をくらい一切合切、一瞬にしてすべてのものを忘れてしまい、心につかえるわだかまり、とらわれも無い悟り の心境を得た」という意味で使われ経典や知識の及ばぬところに悟りの道が開けるという、禅の綱領を示した故事の一つです。
どれだけ知識を大量に得ても、経典をどれだけ読み込んでも、それを悟るわけではなく気づいたわけでもない。その一つの気づきを持つために何十年もかけて実践修行をしてきたことを心境で顕したものです。
気づくことで真理を学び生き方を正すことが目的ならば、わかることはほとんど意味がないことは自明します。自分を磨いていく砥石は、自然や真理ですからその砥石を通じて自分の心魂を磨いて研ぎ澄ませていくのは私たちの日々の実践です。
非認知の大切さは知識で教えるものではなく、先人や身近な大人たちが生き方で示していくものです。今それが世界で求められるということは、何が課題なのかはすぐに気づきます。
引き続き、子どもを信じきる生き方を磨いて子どもに豊かな未来を譲り遺していけるように実践を積み重ねていきたいと思います。
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非認知という言葉は、保育界で最近よく聞く言葉です。その好例が禅問答というのは、身の廻りに目を配り、自分でもっと掘り下げなければと感じました。同時に目の前に追われていたら、気づきもありません。気楽に楽しんでいきたいと思います。
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「識と般若」の違いというのを聞いたことがあります。それは、「知識で知る得る世界」をいくら追及しても「知識を超えて直感的に真実相をつかむ智慧の世界」には入れないということです。「識」というのは、言い換えると「理屈を振り回す世界」です。「正しさや確かさを求める世界」です。その延長線上に「真理はない」ということを再確認しておきたいと思います。
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教えずに体験を大切にするというのは、こちら側が育ち、磨いていただいているなと、子育ての中で感じます。子育てでの体験もまた、変に先に学んだり知識を元にやらず、振り返り、気付きから改善していく流れを大切に出来たのは大きな宝だと感じました。お陰で、知識からの選択肢では体験できないことを沢山頂いたように思います。引き続き、気付きを大切にして行きたいと思います。
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聴福庵での取り組みや暮らしには体験からの気づきが多いことを感じます。ある意味では子どもの頃の遊びの発展形のようでもありますが、それだけ人間にとって大事なものでもあり、その「子どもの頃の遊び」の感覚が今の子どもたちに減ってきているのは時代なのかもしれません。自分自身が体験から学んでいくことを大切にしたいと思います。