古街道の町家に住んでみると、かつてはその通りにたくさんの人が往来しそこで商人や職人たちが仕事をして賑わっていたのが形跡からわかります。今ではインターネットを使ってどこでも簡単便利に品物も手に入り、物流も発達していますから修理なども郵送して行うことができます。さらに大型店舗ができることで、みんなそこに車で移動しその中で買い物しますし、大きな道に店舗はあっても車で立ち寄るようになっていますからそこに入ればまたすぐに他の場所へとさっさと移動してしまいます。
かつては、歩く速度で往来していた場所はほとんど廃れ、一部の観光地だけが残っていますがそこはほとんど土産物店です。本来の懐かしい商家や町家は、そこでの暮らしがあってその生活のために必要なものを販売されていました。数々の職人たちが住み、商人たちが人々が暮らしで必要なものを販売したり、または道具を修理したり、さらには休憩して情報交換する場所なども用意されていました。
この人が歩く速度というのが、もっとも人間には合っていてその歩く速度で物事を考えられたり、出来事を深く味わったりすることで私たちは仕合せや豊かさを感じるものです。
聴福庵のある場所も旧長崎街道ですが実際は観光地の場所だけ大型バスで乗り入れてそれが終わればまた大型バスで違う場所に移動というように歩くことなく去っていきます。本来は、じっくりと歩いてゆったりと観ていく場所ですが、かつてのような商家も職人もいませんから仕方がないことかもしれません。
京都に行けば、まだそのようなところは残っておりかつてのような佇まいを体験できるところもあります。日本にあったかつての民家がなくなっていくというのは寂しいものです。
民家の甦生は暮らしを実践することからはじまります。この旧街道に人々がまた往来するかどうかはわかりませんが、試してみたいことがまだたくさんあります。子どもたちに新しい生き方や世界が手本とするような働き方を遺し譲るために一つ一つを歩く速度で丁寧に甦生を続けていきたいと思います。
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刷り込みとして常識になっているものに、速さと早さが求められてきたことの多いのに気づかされます。
早くできるようになる、早く分かる、早く成長する、などなど、その要求は増す一方で、例えば自分が子どもの時と今の子どもたちと比べて、ますます求められているように思います。
江戸時代の人のほうが歩く速さは速かったし、歩く距離も長かったのでは、と想像しますが、いうなれば体感速度のように、その速度をどう感じて暮らし、生きるのかに焦点があると思います。
学びや成長についても、この観点から追求してみたいですし、子どもたちに伝えたい暮らしや生き方は、自らの実践で、背中を見てもらえるようにと念じつつ、一歩ずつ進んでいきたいと思います。
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以前ある人が、「少し止まると書いて、歩くだよ」と言っているのを聞き、妙に納得したことを思い出しました。通勤途中の道のりは誰もが早足で、肩がぶつかれば喧嘩になりかねません。本来の速度を超え、寄り道する余裕もないのは考えものです。とはいえ、日ごろの通勤は自分自身早足ですが、寄り道するゆとりや、子どものように町の中で何かを発見する喜びを感じられる遊び心を大事にしていきたいと思います。
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ネット環境が整い、交通手段も物流も効率化されて、仕事だけでなく生活のスピードも上がってしまった結果、「人間がいつも急がされている」感じがします。「急ぐこと」は努力であっても「急がされること」はストレスになります。また、「早い(速い)こと」に慣れてしまうと、「遅いこと」が悪いことや価値が低いことになってしまいます。「相対速度」ばかり追いかけずに、「絶対速度」の生き方も人間には必要なのかもしれません。
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山登りも、タイムトライヤルのように登ると、目標達成でしか豊かさを味わえず、自分達が定めた目標からばかりの評価基準になります。しかし、ふとしたきっかけや景色、困難が降り注ぐとそのもの自体を味わう歩みに変えてもらえる事に気付き、タイムトライヤルの歩みを辞められることがあります。こうあるべきという基準で歩まず、今という基準で歩みたいと思います。
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以前、ある園の保育の特色をお伺いした際に「お散歩」と仰った先生がいました。最初は不思議に感じましたが、お話を聴いていくうちにきっと自分にはわからないほどそこに特色があるのだということが感じられました。走っていては感じられないもの、子どもたちの歩く速度にも意味があるのかもしれません。見逃している世界があるかもしれないと、時にじっくりと味わうことも大切にしていきたいと思います。