優しいぬくもり~炭団~

聴福庵にはあらゆる炭が活躍します。その一つに冬の風物詩でもある炭団(たどん)というものがあります。豆炭というものもありますが、それとはまったく製法も中身も異なりこの炭団は炭(木炭、竹炭)の粉末をつなぎの素材と混ぜ合わせて団子状に整形した燃料のことです。

冬の櫓こたつにはこの炭団は欠かせません。朝にこの炭団に火を入れれば夕方までじっくりと種火のままに燃えて暖めてくれます。遠赤外線が出て、まるでお風呂に入っているような感覚です。炭が残ればそのまま、豆炭あんかの中に入れればそこから一昼夜は暖かいままです。それを布団の中に入れておけば、ぬくぬくした布団で寒さは少しも感じません。

この炭団は本来は、捨てられるはずの炭で木炭製造時に売り物にならない細かい欠片が大量発生したものです。この大量の炭の粉末がたまるこれらはそのままでは燃焼させにくいので、練って丸く固めて成形させ使ったのです。木炭に海藻を混ぜて成形した炭団はカタチも丸く可愛らしいですがその熱も自然な暖かさと和かさがあります。

余談ですが豆炭は、原料は石炭が用いられその石炭の中でも最も炭化の進んだ高カロリーの無煙炭といわれる石炭を主原料として作らています。石炭は化石燃料ですから、石油と同様に人体に有害なものも出てきますが熱量はやや大きく燃焼します。練炭なども豆炭と共に炬燵に使われてきたこともあったようですがやはり炭団ほど合致しません。

あまった炭を最期までちゃんと使い切ろうとする智慧から生まれた炭団は、日本人ならではの精神が入っているように感じ愛着が湧きます。今度は七輪や竈で余った炭をさざれ石のように固めて燃やしたものでじっくりと料理をしたいと思っています。

最期まで大切に使い切ろう、すべてのいのちを無駄にはしないという心を炭団からも感じてそこに「優しいぬくもり」を感じるのかもしれません。

引き続き子どもたちに、譲り遺したい文化を伝承していきたいと思います。

  1. コメント

    炭団も豆炭も「聴福庵」で初めて見て、今でも取り扱いに怖さを感じます。火の用心という言葉もこの怖さを感じて初めて、スーッと入って来た思いがあります。同時にもったいない心や無駄にしない心掛けをも大切にしているのだと、心にはたくさんの意味が込められていることに気づき、温かな気持ちになって来ました。私の世代はきっと私自身が知らなかったように、炭団も豆炭も知らない人が多いと思います。子どもたちへもそうですが、その心や火の扱いも伝えていけるよう、伝えていきたいと思います。

  2. コメント

    「炭の火」の特徴のひとつは、「一定温度」を「長時間」保ち続けるということです。その熱を「火鉢」や「炬燵」に使ったり、とろ火で長時間の「煮炊き」に使うなど、一般的な「火」とはまた一味違った「暖」や「温」の豊かさを感じます。欠けたものも粉にして加工し直し最後まで使い切る智慧とともに、生活の中に、日本的な豊かさがあったことを嬉しく思います。

  3. コメント

    妻の実家の新潟でも、冬の寒い時期に炬燵の中に「マメタン」を入れていて、その時に初めてその存在を知りましたが「炭団」というものの違いもまた今回のブログから知りました。同じような用途・見た目でも、その違いを知らないといつかは同じものとしてすげ変わっても気づかなくなるのかもしれません。そのものの違い、あたたかさの違い、感じ方の違いを大切にしていきたいと思います。

  4. コメント

    指針を読んでいるとどの発達項目が何にあたるのだろうかと自然に歩いていたり、園見学をしているとあてはめてしまうことがあります。聴福庵での体験も、新しい指針のどこにあたるんだろうと見てみると、3歳以上の環境 内容⑤日常生活の中で、我が国や地域社会における様々な文化や伝統に親しむ。という項目がありました。これからの保育には、普段の保育導線の中に伝統に親しめる環境が必要であることを思うと、伝統遊びだけではなく、伝統の暮らしというものを大人たちが学んでいく必要があることを感じました。聴福庵がその導入となる体験や深める体験ができる機会ともなっていくように感じています。

  5. コメント

    幼少期から囲炉裏の火や薪風呂に親しんできましたが、炭団タドンは知りませんでした。戦時中に石炭バスの廃棄炭を拾い集めてタドン作りしていたという知恵者の話を聞いたことがありましたが、モッタイナイものの命を使い切る精神と実践に感銘を受けました。

    郷里の新潟は三条市の実家では囲炉裏の白炭の着火にカジゴという柔らかく細かい炭を使ってます。炭窯を築かず木の枝を浅く地面にくぼみを掘って伏せ焼きにします。お爺さんは山に柴刈りに、の小枝です。着火が早く火力が強すぎない、普段使いの便利な炭です。
    また鍛治ゴなので刀や刃物の鍛治にも使われていたものと思います。
    そのカジゴがとうとう買えなくなった、つまり作り手が無くなってしまったと最近聞きました。
    福島県と境を接する深山の地域での生業が支えてもいた里の暮らしや産業も、日本中の他の地域と同様に移り変わる中、遺すべきものを、伝えるべきものを見定めて、一つづつ、手から手に渡していく実践に励みたいと思います。

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