物事には目に見えるものと目に観えないものがあり、その眼に観えないものを観る力を観念ともいいます。この観念はもともとは仏教用語で「観想の念仏」からできた言葉だといいます。「観」は知恵を持って観察し悟りを得るというサンスクリット語「vipaśyanā」の漢訳で、「念」は心に思うというサンスクリット語「smŗti」の漢訳だといいます。
この観念をどのように持っているか、それによって観えている世界は人によって異なります。見た目が同じであろうとも、その人物がどのような観点と観念を持つかはその精神によって異なるのです。その観念は物事をどれだけ掘り下げていくかという物の見方の修練によって磨かれていきます。
最近、ある著書で知った金子みすゞさんの詩に「蜂と神様」があります。
蜂と神様 金子みすゞ
蜂はお花のなかに
お花はお庭のなかに
お庭は土塀のなかに
土塀は町のなかに
町は日本のなかに
日本は世界のなかに
世界は神様のなかに
そうして、そうして、神様は
小ちゃな蜂のなかに。
日本人には昔から八百万の神々という精神があります。自然の道理と共に暮らしてきて民族だからこそ、小さな蜂の中にも神様の存在を感じることができたはずです。身近な小さなものを広げていきもっとも大きなものまで辿りつき、そして小さなものに回帰していくという発想もまた観念です。
こういう観念や観点を持てるというのが道理に精通するということであり、そういう人物が出てくることで私たちの国は何回も甦生してきました。守られているという実感は、歴史の中で道理に精通する人物の顕現によって感じることができます。
この日本の観念のことを大和魂ともいい、その大和魂を持つものを古は日本武尊とも呼びました。
時代が変わっても、本質は変わらずに存在し、日本という国が如何に変遷を辿ってもその精神の奥深くにはこの観念が根付いています。
私たちは同じ地球の中にあり、日本も日本人もまた大切なお役目をもって生まれてきています。だからこそこの観念の醸成はその国々の使命であり、未来を生きる子どもたちがもっとも発揮して貢献していく基礎になるはずです。
復古創新から、復古起新へと舵を切りつつ子どもたちの中に眠る大和魂を揺さぶりながら日本武尊の観念を身近な暮らしから子どもたちに伝道伝承していきたいと思います。
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わたしがみすゞを教えていただいたのは今から17年前、みすゞの詩にもでてくる酒屋さんの建物保存の呼びかけにメンターと共に参画したときでした。その酒屋さんは取り壊され立派なみすゞ記念館の建物ができて仙崎のまちを訪れる人々を迎えているとのことです。
記念館の賑わいは素晴らしいことですが、願わくは、その記念館に、酒屋の建物と共にあったみすゞの精神が息づいていることをと、思わずにはいられません。
大漁の陰に、海底での弔いを観るこころ。
星は昼間見えないけれど、見えないけれども無いのでなく、歴然としてあるのだと、こころの眼で観ることをさらりと示してくれるみすゞ。
聴福庵の井戸掘りは、そんな目に見えなかった暮らしを、こころの眼でしか観えない暮らしを実践を通して、皆の目に見えるようにしてくれる、実に尊い行いと感じられます。だから、古民家の甦生は、貴い実戦の現場以外のなにものでもないと思います。
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日本人には、「情緒」という特質がありますが、その力は、自然の妙を理解し深く味わうだけでなく、あらゆるところに神の臨在を感じる力でもあります。こういう観念は、時に人の悩む姿や苦しむ声を「観る」力としても、これまで随所で発揮されてきました。この豊かな観念を取り戻したいものです。
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詩人坂村真民さんの「六魚庵箴言」に出会ってから一日一言ずつ詩を読んでいますが、心の琴線に触れるものがあります。大人になって子どもの頃出来なかったことができるようになりましたが、同時に子どもの頃見えていたものが見えなくなっていることも感じます。ですが一円対話を通して、子どもの頃の気持ちを思い出したり、子どもの発見を見聞きすると思い出すものがあります。真民さんの詩に感動するのは、上手く表現できませんが感謝を感じるからなのかもしれません。金子みすゞや真民さんのように、自分の言葉で気づいたこと、感じたことを伝えていくことを大切にしたいと思います。
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致知のある方の記事に「命とか心とか魂とか、そういう人間の根っこが分からない。…生活がないと命が分からなくて、ただの物としか見ない。」とありました。生活、暮らしを通して受け継がれてきたもののお話をされているのだと感じられますが、現在92歳のこの方も何か大いなるものに突き動かされて今もなお伝承していこうとされているのだと思います。自分たちもまた繋がりの中でさせていただいていることを忘れずにお役目を果たしていきたいと思います。
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今まで日本には特別に素晴らしい物があるのだと感じていましたが、初めてドイツに行き、今現在も普通に百年単位の建物に暮らしている町並みや、夜8時を過ぎると店じまいをする景色や、消費文化ではない人々の暮らしを見たりすると、日本と外国と分けることで見えなくなるものもあるのではないかと感じるようになりました。地球として考えてみれば神様は地球上のあらゆるところにいるのかもしれません。分けない心、捌かない心を大切にしていきたいと思います。