私たちの会社には「自分に矢印」という言葉があります。これは矢印を相手ではなく自分に向けろという意味ではなく、「誰にも矢印を向けないこと」を「自分に矢印」という言い方で表現しています。
つまりは誰のせいにもしない、誰も責めないときこそが本当の意味で「自分に矢印」になっているということです。
この国にいると、幼いころから責任を常に誰かに押し付けられ、いつもどこか不安で責任から逃れることばかりを考えてしまう空気感があります。一人でできること、自分ですべてできることを最良のように教えこみ、誰の力も借りずにできた人のことを優秀だとさえ評価したりもします。
先日もオリンピックのニュースで日本人はメダルがとれなかったり周りの期待に応えられないとすぐにみんな泣きながら謝罪している人が多いとありましたが、責の重圧の中で押しつぶされてしまっているような人たちも多く見かけます。生前アインシュタインはこうも言っています。「どうして自分を責めるんですか?他人がちゃんと必要な時に責めてくれるんだからいいじゃないですか。」と、すぐに自分を責めて先に謝りますが別に誰もその人を責めてはいないのになぜ自分から先に責めるのか。自分で先に責めれば他人からのアドバイスや助言もすべて責められていることになってしまいます。本来は、それは助言や成長するための知恵であるのにそれを自分への責めにしてしまうことで責任意識ばかりが強くなっていきます。
日本人はマジメな国民と自評もしていますが実はこのマジメは、自分を責める人が多いという意味で使われている気もします。人間はそんなに強くありませんから自分をこれ以上責められないところまで来ると今度は他人のことを責めようとする。この責めるということの負の連鎖は、さらなる不安で孤独な人を生み出しより一層孤立を深めてしまいます。
だからこそ何よりも重要なのは、不安な人が余裕を持てる環境をつくること。そして自分が誰も責めなくてもいい環境にしていくことです。見守りや安心基地というのは、責めない場所でもあるのです。
まずは自分で責めるのをやめること、そして誰かを責めるのをやめること。誰も責めないというのは、「そこから学んで次に活かそう」という前進し成長するあるがままの素直な姿になるということです。
責めることでいつまでも感情の渦の中に引きこもって停滞してしまったらせっかくの機会も無駄にしてしまいます。責められることで自分を他から罰されて楽になったり、責めることで自分を守り楽になることは自他ともに幸せになることはありません。それは単に一時的に責めたり責められることで自分がバリアを張って自分を守っているだけでバリアが強く厚くなっていくだけです。ピンチはチャンスだと、責める前にその機会に食らいつき活かそうとしたり、誰も責めずにそこからどう福に転じるかと一瞬の間を与えずに取り組んでいくことで解放していく方法もあります。
どちらにしても、「マジメじめじめ」ともいいますがすぐに誰かを責めてしまう癖を捨てていくことがこの閉塞感から抜け出せ、好奇心を呼び覚まし挑戦を味わい楽しんでいくための知恵になります。
誰かを追い込むか、自殺をするかしかないような閉塞感があるこの社會を変えていくのは自分が責めるのをやめることからはじめるしかありません。「自分に矢印」の実践を積み重ねていくことこそが、社會を変えていくということです。この刷り込みが根深いからこそ、今の大人たちがそれに気づき解放していく必要性を感じます。
子どもたちに同じような不安で苦しい思いをさせないように、自他を責める生き方をやめ自他をゆるす生き方のお手本を示していきたいと思います。
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「自分を責める」人には、「自己否定」が強いケースと、他人に責められる衝撃を少しでも軽くするためのクッションにする「保身」のケースがあるようです。いずれにしても、「自分で自分を責める」という発想をしている間は、人のアドバイスが効きません。「否定から肯定は生まれない」と言います。同じ「責任を感じる」のであれば、結果に対してではなく、仕事に向かう姿勢として持っておきたいものです。
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自分にいっぱいになると他人に八つ当たりしてしまうことがあり、さらに自己嫌悪に陥ることがあります。最近の乳児保育のあり方として、負の感情に陥った時、利用可能な大人がいることを直訳では「情緒的利用可能性」と言い、これを「見守る」という言い方をしているそうです。子どもであっても、大人であっても負の状況に陥った時、責めるでもなく「どうしたの?」と聞き合うことを大切にしていきたいと思います。
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以前『自反尽己』という言葉と出逢い、そこには「自反とは指を相手に向けるのではなく自分に向ける」とありました。そして安岡正篤氏はこの自反に己尽を加え一つの言葉にされたそうです。己尽とは決して誰かを責めることではなくとても前向きであり、また時として責める以上に過酷なことのようにも思えます。山本玄峰老師がある刑務所の受刑者たちを前に「済まんかったなぁ」と謝ったという一言のように、愛をもって省みていくことを大切にしていきたいと思います。
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自分のための全体と全体のための自分。この二つの分け方を思ったときに、全体を思うことの大切さを感じてきましたが、全体や個と分けていることや、どちらに軸足を置いているかを考えることがまた、確執を作っているのかもしれないと感じました。自分は評価の基準をどちらかに置いていました。これからは、個も全体も含めた一体となったところに軸足を置いていきたいと思います。