人間は、自分自身と向き合い初心を確認してその初心から離れないようにしなければ気が付くと他人の夢をいつまでも追い求めたりするものです。自分自身が本当の求めていたものは置き去りにして、自分が認められたいことや手に入れたいと思っていた願望を追い求めたら成功はしても仕合せではないという矛盾が発生してしまうこともあります。
今度はそのように成功してしまえばそこから離れることができず、いつまでも不仕合せが続いてしまうということもあります。この本当の自分が何を望んでいるかという初心を自分から先に手放してしまわないようにすることこそが初心を忘れないということです。
ではどのような時に初心を忘れるかといえば、自分に負けるときになります。例えば、比較競走社会の中で誰かと比較して自分が認められようとしたり、自分が差別されたり酷い評価をされたりすることへの復讐をしようとしたり、ないほうばかりを見てあるものを観なくなったりするときに自分に負けて初心を忘れるのです。
そもそも与えられた天命を謙虚に受け止めて、それが天命であり使命であると真摯にいただいたものに感謝して歩んでいる人は初心がいつも身近に備わっています。その逆に、与えられた環境には満足せずこんなはずではないや、もっとこうであるはずといったないものねだりばかりをしていたら自分に与えられた天分というものもまたわからなくなります。
身の丈が分からなくなるのもそのときで、自分の存在が本来の自分の姿より大きくなったり小さくなったりとしているうちに自分が歪んでしまうのです。自分が歪んでしまったときに、親切な身近な人の声を聴ける謙虚さがあればいいのですが往々にしてそういう時に自分に負けて人間はそういう親切な人の話に耳を傾けなくなるものです。
謙虚さというものは、天命に対する謙虚さのことです。つまり天=謙であるということです。謙虚さを忘れるとき、人は初心を忘れるのです。常に謙虚でいることは、常に初心を忘れないでいること。人の話に素直に耳を傾けられる状態でいること、つまりはもっとも自分が聴くことができる状態でいるということです。
子どもたちに背中を遺すためにも聴福人の実践をしながら、天謙の道理に外れないように初心を忘れずに歩んでいきたいと思います。
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「もっとも自分が聴くことができる状態」。常にそうありたいと思いながらも波があり、頭で考えているなと思うことがしばしばあります。振り返って自分自身を取り戻せる時、人の振り見て自分自身を省みれる時はまだいいですが、感情に持っていかれると収拾がつかなくなります。「苦しい時は心が育ち、楽しい時は笑顔が育つ」ではないですが、そんな時ほど聴くことが求められ、育つチャンスなのだとポジティブに捉えていきたいと思います。
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人は、謙虚になろうとしても謙虚になれるものではありません。それは、人生に対する根本的な認識が違うからです。自分が世の中を見て、自分で世の中を裁いている限り、その姿は謙虚からは程遠いものでしょう。また、与えられていることに鈍感なときも謙虚にはなれません。天命をどのように受け止めているか?!自分が生きる根拠がどこにあるか?!そこが勝負どころではないでしょうか。
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自分自身がどうしたいのかを忘れると、急にどうしたら良いのかを周りに求める時があります。その度に、誰かがもう一度、どうしたかったのかと問い直してくれるのが有難いです。自分の聴く耳が傾聴、受容、共感、感謝の実践を出来ているか、立ち返っていきたいと思います。
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「真の名誉とは天の命じることをやり遂げるところにあり、それを遂行するために招いた死は決して不名誉なことではない。だが天が与えようとしているものを避けるための死は、まさに卑怯である。」死という言葉にすれば大きすぎますが、行動一つをとっても大本は同じなのだと思います。何が与えられているかを考えずに行動した方がラクな場合は多いですが、そもそもを確認していきたいと思います。