人は何かしらの恩を受けて生きています。生きていけば必ず何かの恩恵を受けて生きています。誰にも助けてもらったことがないことなどこの世には存在しません。つまり生きていくというのは誰かから、また何かしらの恩を受けて生きているということです。
かつて返せないほどの偉大な恩を受けた人に、恩を返せない場合は自分と同じような人を見つけてはその恩を返すという具合に恩は送られ続けていくものです。もしも与えた恩を自分に見返り求めて返してほしいなどと思うのなら恩を仇で返されたなどと感じるのが人間です。
大隈重信の遺した言葉に「施して報を願わず、受けて恩を忘れず。」があります。これは人に施しや親切を行っても、そのお返しを願ってはいけない。また、施しや親切を受けても、その恩を忘れてはいけないという意味ですが人間は我がありますからその逆を思っていたりするものです。こんな態度になれば徳を積むこともできません。
いつも誰かに助けてもらっているはずであるのに自分からは誰も助けようとしなかったり、自分がしてあげた分に報いようとしない相手に矢印を向けたりと恩を私物化してしまうのです。まさにこれこそが仇そのものであり、恩を仇に置き換えてしまっているのです。恩を仇にし仇を無理やり恩着せるでは恩の意味が違ってしまいます。
この仇というのは、辞書によればあだ、かたき、特に憎い相手。相手の仕打ちに対する深い憎しみ。あだする。憎む。恨む。また仲間、相手などという意味があります。今まで仲間であったものが裏切ったりすることで仇になります。つまりは恩を忘れると翻って仇になるというものです。
いつも自分から恩を感じることは、いつまでも助けてもらったことを忘れないことです。それを忘れては逆恨みをするというのは助けてもらった相手を憎むなどというおかしなことをしていることになります。
恩とか仇とかに悩むときは、ただ只管に徳を積むことを意識するといいのかもしれません。お互いに見返りを求めずにただ徳を積んで御蔭様や助けてもらっている存在に感謝して行動をし続ける。そういうことで恩は本物の恩として周囲に送られていくようにも思います。
恩が仇になっていくのは、してやったとかされてやったとか自分のやったことを正当化し過ぎるからです。させていただいたと謙虚にその機会にこそ恩を感じて自他を意識しない方がいいのかもしれません。
人間関係は対等であることや平等であること公平であることなど常に自分が意識して帳尻を合わせたがるものですから恩を仇で返すようなことは日常茶飯事で発生するのかもしれません。
恩送りのままにいられるように徳を積み、徳を磨いて精進していきたいと思います。
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人は、「与えてもらったこと」は無数にありますが、「自分が与えたこと」は数えるほどしかありません。そのせいか、与えられたことは忘れやすく、与えたことを懸命に覚えているようです。しかし、「受けた恩を忘れる」ようでは、人としての生き方に反するでしょう。たとえ、直接恩を返せなくても、「報恩」の気持ちさえ忘れなければ、「恩送り」というカタチで返していくことはできます。今ある自分に感謝し、今日も報恩に生きられるようでありたいと思います。
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心が温かい時、誰かのために何かしてあげたいとそんな気持ちに駆られます。特にその温かいうちに誰かに何かをと思ってしまいますが、時間が経つと何となく元に戻っています。いつの間にかに忘れているようですが、いつまでも感謝の気持ちでいたら誰かの行いで温めてもらうのではなく、行動が変わるのかもしれません。映画「ペイフォワード」では、贈り物と表現していました。行いや言葉、笑顔など自分の持てる全てを使って、この循環を大切にしていきたいと思います。
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会社の歴史を振り返ると、この会社の今があるのも当たり前のことではなく、沢山のお陰様の中で今があるのだと感じます。今に文句を言うのはご恩を仇で返すことなのだろうなと感じました。また、今を当たり前に思うことも同じく仇となるのかもしれないと思うと、やはり感謝の心を忘れて働いてはならないのだぞと教えて頂いているように感じます。今のカグヤがこのステージを歩めることの喜びと感謝を次の代に恩送りとして送っていけるように、タイミングを見て、自分を使っていきたいと思います。
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何をもって恩と言い、何をもって助けてもらったと言うか、そこにも受けての徳が試されるように思えます。一見すると仇で返されたと思えるものが実は大きな助けであったり、逆に安易な助けが仇となることもあるのかもしれず、生き方の次元でものを観れば物事が違って観えるからこそ、聴福人の生き方を通してその受け取り方の方を磨いていきたいと思います。