先日、「愚直」について考える機会がありました。この愚直とはバカ正直すぎて臨機応変ができないことなど辞書に書かれます。しかしこの時の愚直さの「愚かさ」は決して嫌な意味での愚かさではなく「尊い愚かさ」の方を言うように私は思います。
この愚かさの反対は要領がいいことを言うように思います。損か得かで物事を見れば得ばかり求めている人は要領がよくなっていくものです。特に仕事では残業がなく上手く仕事ができる人や休日出勤しなくていいや、段取りよくスムーズに仕事をしてプライベートの時間を楽しめるなどが要領が良い人などと言われます。
愚直な人は損をしているイメージがありますが、愚直な人は徳を積んでいる人だと私は思います。仕事と生き方を分ける人は、仕事は損か得で考え、生き方は徳だということを自覚しています。しかし実際の日常生活の中でそこを分けて生きる人は仕事は本当は徳を積める善いものであるにも関わらず損したとか得したとか、その意識で働こうとします。
働き方と生き方が分かれればわかれるほど、せっかくやったこともすべて損得勘定で不平不満ばかりを述べてはせっかく積んだ徳も流れてしまいます。今の時代は、損か得かの得の方ばかりを見ては苦労を避けたり、艱難辛苦から逃げようとして楽ばかりを求める風潮もあります。楽を選べば得はしても徳は積むことはありません。
この愚直さには徳があり、正直に素直に生き方と働き方を一致させ真摯に一生懸命に人生を盡す人には道理に叶い幸せになるのが分かります。愚直さとは自然の摂理であり道理そのものですから、自分の生き様や生き方に照らして日々をどう生きるかはその人がどれだけ正直に盡せるかに懸かっているのでしょう。
愚直こそ徳の顕現した姿ですから、愚かなほどに正直である人こそこの世でもっとも尊い人だということだと私は思います。子どもたちにはどちらの自分でありたいか、どちらの自分を見せたいかは明白です。
最後に、松下幸之助さんが大切にされた「愚直の尊さ」を松下政経塾の塾生レポートのHPに紹介されていたので転載します。
「愚直の人
あまりにも正直すぎて、おろかなほどにまでひたすらで、だから機転もきかないし融通もきかない。世俗の人から見れば、どうにももてあますような人。
そんな人はいつの時代にもいるもので、これも人間性の一面であるのかもしれない。
しかし、正直すぎるのはいけないことなのか。ひたすらなのはいけないことなのか。機転がきかなくて融通がきかないのはいけないことなのか。
よく考えてみれば、どれ一つとして非難すべきことはない。むしろ、りくつばかりまくし立てて、いわゆる賢い人ばかりが多くなったきょうこのごろ、こんな愚直な人は珠玉のような人であるとも言えよう。
古来、祖師と言われるような人は、ほんとうは愚直の人であったのかも知れない。だから、世俗には恵まれなかったとしても、そのひたすらな真実は、今日に至るもなお多くの人の胸を打つのであろう。
愚直もまたよし。この波らんの時にこそ、自分に真実な道を、正直にひたすらに、そして素直に歩んでみたい。
(「続・道を開く」松下幸之助 P84-85 PHP研究所 1978年)
コメント
直向きや地道、実直も愚直に近い意味を感じますが、決して華やかは感じません。華やかさはありませんが、華やかさに引けを取らない善さを、幸之助さんのレポートからも感じます。自分にないものを羨み、無い物をねだりたくもなりますが、コツコツ積んでいく生き方を目指していきたいと思います。
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「愚直」というのは、「愚か」なのではなく「愚かなまでに素直」ということです。「愚かなまでに」というのは、「損得や要領に一切関知せず、ただひたすら素直に」ということでしょう。これは、本来、人が陥りがちな「私心」や「私欲」あるいは、「あらゆる囚われ」を離れてという姿勢であり、真の強さを感じます。私も目指したい生き様です。
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徳を積む感覚はまだピンとくるものではありませんが、子どもたちに遺していけるものを考えれば、直接木を植えること以上に木を植え続ける心を受け継いでいきたいと思えます。人生も仕事もその心の修行が目的になれば損得の基準は変わり、選択や受け取り方が変わってきます。クルーの信念の種には「素直・正直・実直」などが多いですが、大切にするものを見誤らないよう姿勢を正していきたいと思います。
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愚かさを正直に晒せる強さは、飾らぬ愚直さのように感じます。人生、皆一生懸命に生きる機会を毎日頂いていますが、人の愚直さを愚かと表現したり、感じたりすることに一生懸命になったり、自分の愚かさを覆い隠したり、気付かないために一生懸命にならぬようにありたいと思います。人の道は人の道。自分の道を歩むときはやはり、正直に心と弱さを晒せる灯りを持って歩みたいと思います。