昨日は、日本の伝統的な保育についてある保育園の職員の方々と一緒に話し合う機会がありました。東京オリンピックを控え、世界に日本のことをもっと知ってもらい楽しんでもらうおうと取り組みはじめたことですが回を重ねるにつれて内容も深まっています。
私たちは日本人ですが、当たり前に使っている言葉や文化には疑問すら持ちません。本来、この当たり前であることは考えなくても教えてもらわなくても自然に長い時間をかけて伝承されてきたことですが実はこれはとても価値があることであるのです。
この日本文化の価値に改めて気づくことは、自分の価値に改めて気づくことにもなります。当たり前に自然に使っている言葉をはじめ、様々な価値観はその文化の裏付けがあって今も脈々と私たちの心身に流れているからです。
例えば、素直さや正直さというのは日本の美徳で「いつもお天道様が見ている」といって見守ってくださっている存在を身近に感じて暮らしてきました。誰が見ていなくても天が見ているとして私たちは天に対して正直な心を大切にして言葉を掛け合ってきました。
ありがとうや御蔭様、すみませんやお互い様なども天に対して語り掛けている言葉でもあります。相手に対してどうかではなく、いつも真心を感じながらお天道様や親祖に恥じないようにお互いに自分を律して生きていこうとしてきたとも言えます。
思いやりというのもまた、そこから出てくる言葉で自分だけのことではなく全体(ご縁あるすべてのもの)のために自分を活かしていこうとする心と行動の顕れでもあったはずです。
その文化の地下水脈は思い出しさえすればいつでも私たちはそこに立ち戻ることができます。いわば心のふるさとのような場所に、常に日本文化は存在し、私たちはその文化を伝承することによって本当の価値を学び直すことができるのです。
日本の保育を深めていくことは日本を深めていくことであり、自分を深めていくことです。
引き続き世界に発信していくためにも、日本の価値を再発見し甦生させていきたいと思います。
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よく「日本語には主語がない」と言われますが、「ありがとう」には、話し手も聞き手も、つまり「人間」が出てきません。また、「サンキュー」は「感謝するという動詞」ですが、「ありがとう」は、「有り難いという形容詞」「有り難くという副詞」からきており「状況を現している」とも言われます。このようなことは比較してみないと気づきませんが、日本人の発想は、世界とは根本的に違っているようです。外国人に指摘される前に、日本人として、日本文化の素晴らしさとその価値を認識できるようでありたいものです。
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一般的に大人になるに連れ、子どもがいないと豆まきや端午の節句など、積極的関わろとはなりませんが、園では子どもたちに経験させたいとどこの園でも行われています。それを見ると、子どもたちの周りでは日本の文化が継承されていることを思います。子どもがいるかいないかに関わらず、自分自身が文化や伝統を大事にしていきたいと思います。
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「いただきます」「ごちそうさま」が「Let’s eat.」「I’m done.」と訳されれば、私たちは何か違和感を感じますが、「さあ、食べるよ!」「食べ終わった?」などと子どもへ声かけしている場面は日常で度々目にすることもあります。それを思うと自分たちが言葉の持つ深さを失ってきている今だからこそ、外国との異なりを知る中で改めて自分たちを知っていくことが大切であることを感じます。社内で皆が心掛けている「おかえりなさい」の言葉も英語では直訳できず、そもそもその言葉掛けの習慣が無いとも言われます。身近なところから自分たちを深めていきたいと思います。
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自分という概念が存在しない文化の中で、自分という概念で自分を守り、自分の利益に敏感になるような人が入ってくると、やはりその文化では、一部の人たちのみに負担がかかってくると同時に調和が乱れると感じます。しかし実際のところはそう感じているのは自分だけで、それぞれがそれぞれらしくいることが全体最適あって今も問題がないのだとしたら、自分をなくして全体へと頭で考えて無理に頑張っているだけなのかもしれません。犠牲と貢献という話がありましたが、変に犠牲になろうとするのではなく、頂いた体験からお返ししていきたいと感じられるところを重視し、それ以外の課題問題は、抱えずに皆で仕組みを考えていけばいいのかなと感じました。