今年は「ゆるし」をテーマに、様々なことを深めていますがとても奥深く発見することばかりです。よく考えてみればみるほど、私たちはゆるされている存在として今があることに気づきます。周囲に助けてもらわなければ生きてはいけない存在だからこそ自分がゆるされていることを感じるからです。
例えば、私たちは重力という恩恵を受けています。重力がなければ立ったり座ったり、運動することができません。そして空気という恩恵もあります。空気がなければ呼吸できませんから生きていくこともできません。そして太陽に水の恩恵、あらゆる恩恵を受けて私たちはゆるされてこの世に存在することができているのです。
このゆるされて存在するというのは、一人では生きていけないということでもあります。ここでのゆるすは、相対的に許す許さないで使われるときのゆるすではありません。本来のゆるすは、「恕す」ですから思いやりによって活かされているという意味です。
思いやりの中で存在しているのだから、少し損をして生きるのは当たり前のことだとも言えます。それを実践していくことを古語には陰徳とも言います。陰徳は、活かされていることを実感し活かされていることへの感謝に生きることを言うのかもしれません。
私たちはどうしても自分勝手にするあまり、自分がゆるされてもいいと周囲に押し付けようとするものです。しかし謙虚に自分がゆるされていることを感じていれば、自ずから与えてもらっている偉大な恩恵を実感し感謝の気持ちでゆるされていることに気づけるようにも思います。
当たり前に与えていただいている恩恵こそが「ゆるし」そのものの存在であり、謙虚にその恩恵に感謝するとき自分がいつも見守られ非常に多くのものに活かされ助けられていることを思うとき「ゆるされている」と感じるのです。
私の好きな言葉に「信じて聴く、ゆるされて聴く」という言葉があります。これは親鸞上人がノートのメモに書き残したものを偶然見つけたところの文章です。私はこの文章がとても好きで、聴福人の根底の理念にはいつもこの言葉が座右として存在しています。
引き続きゆるしを深めながら、子どもたちの今と向き合っていきたいと思います。
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「許されている」というのは「天に愛されている」ということでしょう。「天が許している人」を「自分が許さない」という理屈は通りません。そういう資格はありません。大事なことは、すべての人が「許されている存在である」ということを、しっかり受け入れることでしょう。その根本を間違わないようにしたいと思います。
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「伝承の本質」という子どもたちのやり取りが書かれたブログに、思いやりによってゆるしていることを感じます。大人になればなるほど、人間関係が複雑に交錯しますが、論語にも、言わんとすることを一字に集約したら「恕」だとあります。子どもたちのような素直な心、思いやりを大事にしていきたいと思います。
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一円対話でも許すの方には自分の価値観が基準にあり、そこから一円にしようとしている感覚がありますが、どちらもあって本当にいいとその異なりが全て活かされているように実感できるような時もあり、その時はもっと大きな感覚でゆるしの状態になっているように感じられます。前提にあるものから磨いていきたいと思います。
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怒りや不満や頑固さなどどれも恕す心が欠けている時になるのだなと、改めて感じます。なぜ許せないのか、自分が何に引っかかるのかを見つめる機会として受け取り、優しい人に少しずつなっていきたいと思います。