能力主義、能力評価というものがあります。幼い頃から自分の存在価値や自分らしさではなく、自分の能力を拠所にしてきた人は周囲に対して自分は何の能力があるかという評価を意識しながら生きていくものです。またそういう能力に対する刷り込みがある人は、何かしらの結果はすべて能力によって可能だと信じ込んでしまいます。
本来は能力だけでその結果が得たわけではなく、その人の真心や身を削るような真摯で誠実な努力や行動によって出来たものでさえその人の能力の力だろうと思い込んでしまいます。運も実力の内という諺もありますが、本当は能力は付属的要素であってもっとも大切なのは思いやり行動したり、初心を忘れずに遣り切るときにのみ他力が働いて物事は成就することがほとんどです。
この能力刷り込みというものは、「できるできない」という判断基準を持ちます。そのできるかできないかというのは、自分の能力でできるかできないかという判断基準です。
例えば、仕事でいえば自分にできることをやることを責任感があるとし、自分にできないことをやるのは無責任という考え方があります。これは能力で仕事を判断する場合は、能力を超えることをやって失敗したら迷惑をかけるのだからできそうなことしかしない方がいいという考え方のことです。自分のできそうな仕事を探し、自分のできることだけをやっていく仕事というものは能力があればできるものです。しかしもしも自分の能力を超えたことが発生したとしたら、そこでやめてしまったりそれ以上は踏み込まなかったりします。
ここでの踏み込むというのは、どこまで相手の問題や課題に責任を持つかということです。本来は、能力でできるかできないかで仕事をするのではなく相手のためにできるかできないかで仕事は行うものです。
言い換えれば、「自分にできないことであったら誰かできる人を探してでもその人の助けになってそのために自分にできることはなんでもやる」というのが本当の責任感ということになります。
実際に能力を拠所にその評価を気にしている人は、能力で解決しようとするあまりできないことをやろうとしてできることをやりません。できないことをやろうとするというのは心を籠めないで理屈ばかりで乗り切ろうとしたり、思いやり勇気を出して行動をすることを避けては、その場限りの技能やテクニック、ノウハウなどに頼ってしまいその能力でできそうなことにばかり頭を悩ませることをいいます。
人間は自分の存在価値を認めていけば能力が存在価値ではないことに気づきます。自分の持ち味もまた能力のことを言っているのではなく、その人の個性のことを言っているのです。個性を尊重するか、能力を尊重するか。本来は個性の中に能力があるのですが、個性を潰されて能力ばかり評価された人は能力がなくなれば即ち自分は無価値だと信じ込んでいますからどうしても能力を手放せないのかもしれません。そういう生き方は苦しい生き方だけでなく、周囲も人のことも苦しくしていきます。
相手のためにできることはなんでもやろうと生き方を定め仕事をする時、人は自分の能力を超えて働く必要が出てきます。その時こそ、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」にあるように能力に頼らず、信じることに頼ります。信頼関係というものや絆は、能力によって結ぶのではなく相手のためにと保身を捨てるときに得られるのです。
「できるできない」ばかりに囚われている人は、必ず其処には能力評価の刷り込みがあります。個性をもっと大切にして、自分にしかできないことに取り組む必要があります。一度きりの人生、たった一人の自分、その自分の魅力を自分が引き出すのも自分、誇りをもって取り組むのも自分、もっと自分自身を信頼して大切な初心を守るために心のままに生きてみてもいいのではないかと私は思います。
できないとかできるとかで心を蔑ろにして本当の自分自身を誤魔化せば、個性はその他大勢に埋没していきます。もっと自分らしく、自分のままでいい、できないことはできる人に助けてもらい、自分にしかできないことでみんなの役に立てばいい。
自立と共生は、保育の要です。
引き続き、刷り込みを取り払いもっと個性が発揮できる社會になれるように私自身も真心の実践を磨き続けていきたいと思います。
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「出来るか、出来ないか」という視点は、「やるか、やらないか」という視点と全く違います。「出来るからやる、出来ないからやらない」というのは、「結果」に焦点が合っていますが、「やるかどうか」は「意志」の問題です。「やる」と決めれば「どうすればできるかを考えるのみ」で、「できないかも」という発想はありません。大事なのは、「出来る人がいるか」ではなく「やろうとする人がいるか」ということではないでしょうか。
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誰からも声を掛けられやすい親しみやすさ。これが自分にはあるよねと教えてもらったとき、これは確かに、小さい時から変わらないものであったことを思い出しました。そして個性そのもののことを「能力」と感じました。後天的につけられる技術や知識の部分ではなく、その人が持って生まれた個性そのものを能力として見つけあい、認め合い、磨き合う。それが一つの形なのかもしれません。自分自身の眼差しを「ないもの」ではなく生まれたときから「あるもの」とは何なのだろうかと切り替え、あるものを活かし、貢献していければと思います。
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母が昔「人にされて嫌だったことは一生覚えているから、人には自分がしてもらって嬉しかったことをしなさい」と言われたことを思い出しました。子どもから大人になる過程で様々なことを学んできましたが、その間色々なものも身につけて、世間の常識も一緒に観につけてきたように思います。まずは自分自身に刷り込みがあることを自覚し目指す方向に少しずつでも近づいていきたいと思います。
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心を込めて働く大人、そんなモデルとなる姿が子どもの周りから減ってきたことで、本来の働くことの意味を見失いやすい世の中のように思います。刷り込みもまた環境いかんによるものだと思えば、そのもの自体を善悪で判断するよりも、もっと大きな視野で本来は何だったのかの方を観て自分たちを省みていきたいと思います。