昨日、自然農の畑にたくさんの野菜の苗を植えました。最初の土の手入れとその後の草の手入れ、あとはじっと育つのを見守るだけです。そのものが育つかどうかは野菜ですが育ててくれるのは自然ですから環境を整えるくらいしかできませんがそれが自然の力を活かす智慧になります。
農業は最初は技術から入り、知識などでどのように育つかは勉強できますが実際に育ててみるとその季節季節の日照りや雨の状況、気温によって発生する虫や病気もあることから同じことをしていても同じように育つことはありません。自分自身の観察力を磨き、どのような環境に適したものかを見極めていく努力が必要です。
思い返してみると、今では当たり前に続けている畑仕事もむかしは何もわからないままに育ててみるだけの繰り返しでした。一年のめぐりを通して、そのものがどのように育つのか、そして畑がどのような変化をしていくのか、またタイミングがどうなっているのかなどそれぞれに自分の接し方を学びます。
育てやすい野菜もあれば、育ちにくい野菜もある、素直になってこちらが自然から謙虚に学び直していかなければそれぞれの個性を活かすことができません。人間のもともと持っている調和力や和合のチカラはこの農にこそ原点があるように私は思います。
農を原点にすることを帰農とも言いますが、自分が食べるものを自分で育てる。育てる中で自分もその循環の一部になっていく。人間はその中で調和を創造することができる能力を持っているとも言えます。経営も社會も創造するのは人間ですが、その人間がどのように循環を司る力を持っているかが未来の環境を変えるとも言えます。
かつて、自然世を説いた安藤昌益という思想家がいます。この人の言葉にこういうものがあります。
「春夏秋冬、季節の移り変わりに応じて、人々は田畑を耕し、草を刈り、収穫し、次の春に備え、何の矛盾も破綻も不足もなく、始めも終わりもなく、無限に循環しながら、平和に、道徳的に生き存える社会。」
それを万人直耕ともいい、人々がみんな帰農していけば自ずから循環する自然の社會を創造できるといいます。しかしこれは単にみんな農民になれという意味ではありません。これは農的な生き方を大切にしながら、内省し文明の善いところも活かしながらむかしからある伝統的な暮らしを大切に生きていくことを言っているように私は思います。
今、私が実践しているのはこの自然真営道の一つでもあるように思います。
むかしから今に続く暮らしを伝承しながらも、新しい時代の経済を創造するのは私の思う農的生き方なのです。引き続き、農的生き方を磨きながら子ども第一義の理念を深くし弘めて厚く社會に影響を与えられるように精進していきたいと思います。
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「野菜を育てること」で学んだのは、「自分都合の計画は無意味である」ということです。また同時に、「育てることは振り回されることではなく、真に調和することである」ということもわかりました。「自分食するものは自分で育てる」ということを放棄したあたりから、調和が乱れ出したのかもしれません。「帰農」の意味を再確認しておきたいと思います。
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はじめて赤目自然農塾に参加させていただいた際、炎天下の下ただその場に居ただけでしたが、あまりの体力消耗さ加減には衝撃を受けました。「自分が食べるものを自分で育てる。」以前にあまりにも自然からかけ離れた生活を送っていたことも感じました。同時に安藤昌益さんの自然世の、みんな農民になれというのではなく、伝統的な暮らしを意味しているということには救いも感じます。理念に沿った実践を積んでいきたいと思います。
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読んでいて感じるのは、分からないものでもやってみている姿です。「分かる人のところへ行ってみよう、教えてもらおう、やってみよう、振り返ってみよう」の繰り返し事態も、本来の自然な姿のように感じます。季節が巡るように自分自身の人生の巡りも大切に。学ぶ意欲を忘れずにいたいと思います。
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ベランダでの野菜育ても品種が改良されているためか簡単に育てることが出来てしまいました。自然は相手を変えることが出来ないからこそ環境や配慮を振り返りますが、その前提が崩れれば本来あるものが失われてしまうように思います。その視点の変化がどのような影響を及ぼしているか、様々な物事を見つめていきたいと思います。