日々の自分の直観やご縁を信じて歩み、その意味を深めていくことはルーツを辿ることです。その理由は、真理として人間は因果律の中で様々な体験をしていくものだからです。因果の法則に従って、自分が何かをすればその原因が必ず結果を生む、そしてその結果がまた次の原因になるというように永遠に因果は巡ります。
このご縁の鎖は途切れることはなく、今まですべてつながり合ったままに存在しています。自分が生きているということは、先祖の血が流れているということでありそれまでどのように先祖が生きてきたか、つまりは原因を創ってきた結果を受けて生きているのです。
その結果とは、自分の体験することのことです。この体験の意味を深めていくほど、なぜこんなことが起きるのだろうか、この体験は何だったのだろうかと直観すると先祖の中でこういうことがあったのではないか、もしかしたらあの原因がこの結果になっているのではないか、そして私が創る結果が未来への新たな原因になっているのではないかと思いを馳せるのです。
私たちはつい自分に起きたことは自分の人生の範囲だけのことだと思い込んでしまいますが、実際に自分に起きることはその原因はもっと過去につながっていることであり、そしてこれから起きることも実際は今がつながって発生してくるのです。
例えば、何かをしようとするときには様々な出会いがあります。ある人は支援をしてまたある人は邪魔をする、しかしそれは過去のつながりから発生して出会うこともあるのです。また今出会っている人への行いで未来が変わっていくこともあるのです。徳を積んでいればその徳や恩によって周りがその人を手伝おうとしますし、それを使い切ってしまうようなことをすれば同様に仇になることもあります。恩も仇もご縁ですが結ばれていく内容が変化していくのです。
また先祖の遺徳を辿る生き方をする素直な人は、その遺徳が輝き先祖がもっとも託したい志や願いを叶えるために今世で使われていきます。私たちの先祖は死んでいますが、魂は死ぬことなく血の中で今の自分の方向性やご縁を導いていくようにも感じるのです。
選ばないというのは、先祖への恩徳感謝を忘れずにご縁を大切にして一期一会に生きていくということです。そしてルーツを辿り、先祖の生き方を学び今の時代にその生き方を活かしていくことです。
親祖が臨んだ生き方が連綿と連鎖し、全体として一つの芸術のように歴史を創造します。その歴史の一部として私たちは存在しながら親祖の物語をつなげていくのです。親祖が原因であり、私たち子孫はその結果なのです。
親祖の初心が何だったのか、それを知るのが今の私たちが生きている人生の体験です。人生の体験を通して私たちは親祖の初心を思い出し、それを実現するために生きるのでしょう。
引き続き子どもたちのために、ルーツを辿る選ばない生き方を貫き子孫たちが純度の高い物語を受け継いでいけるように自分を遣り切っていきたいと思います。
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中学生の頃、祖父が心筋梗塞で亡くなり、哀しい想いと同時に心で「じいちゃん、頑張るよ!」と思ったことを思い出しました。心に誓ったり、願ったり普段あまり考えていませんが、歴史を辿れば、直接会ったことはなくともご先祖様あっての今であり、自分自身なのだと感じます。そう思うと、次代へ次のバトンを渡すまでやるべきことを行なっていきたいと思います。
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「因果」を短期で理解しようとすると、自分の人生の都合が顔を出してしまいます。すべてを明確にしようと焦るのではなく、分かるときが来るまでしっかり味わっておく必要があるでしょう。また、「結果」の受け止め方がそのまま「次の因」となり「種」となりますから、常に「善き種」を蒔き続けられるよう「もうひとつ努力」してみたいと思います。
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一円対話で「あの時があったから今がある、今があるのはあの時のお蔭様。のお蔭様のエピソード」というテーマがありましたが、今置かれている状況、始めていること、関わっている人々、手にしているものなど、偶然のようで実は全ては決まっていたようにも思えることがあります。日々の試しを存分に味わっていきたいと思います。
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自分の中には母が今までご縁を頂いてきた方々の歴史と父がご縁を頂いてきた方々の歴史が詰まっているのかと、ブログを読んで感じました。血縁とは歴史を刻むほどに多様化していくことを思うと、不思議な気分になります。12世代(300年)ほどさかのぼるだけで私の血縁は4000人近くに上り、私のDNAの中にはその4000人のDNAが残されていることを思うと、自分一人の身体ではないのだと感じます。