先日、島根の美保神社に参拝する途中で境港市を通る機会がありました。ここは「ゲゲゲの鬼太郎」の作者の水木しげるさんが生まれた故郷です。私も幼い頃からこのゲゲゲの鬼太郎が大好きで、いろいろな妖怪たちの存在を身近に感じたり、人間と妖怪がどのように仲良くできるかとそのつなぎ役として鬼太郎が悩む姿に共感したことを覚えています。
目に観えない世界を描き続けていると、目に観えない世界があるかのように思えるものです。かたちあるものとかたちなきもの、かたちなきものへの畏れが失われた現代において妖怪の存在はどこか懐かしく感じるものです。
今の時代は、目に観える形があるものしか信じなくなりかたちなきものの存在はあまり大切にされることはありません。それは単に幽霊や妖怪の存在だけでなく、ご先祖様や神様など目には観えないけれど確かにいて自分を見守ってくださっている存在のことを感じなくなっているようにも思います。
かたちがないものは、自分の信じる気持ちがなければ存在を感じ難くなるように思います。かたちなきものへの思いやりを持っている人は、路傍の御地蔵さんや、過去に大切な出来事があった場所の前を素通りすることはありません。存在を確かめ一礼をし、お導きへの感謝を述べて通っていきます。
かたちなきものは確かにこの世に存在すると信じる人は、いつも目には観えないけれど確かにあるご縁を辿っていくことができます。ご縁を活かす人というのは、目に観える世界だけを信じません。目に観える世界と目に観えない世界がつながっているその中間に存在しご縁をその両面から捉えていく力があるのです。
私は幼い頃から子ども心に、かたちがないものを信じてきました。妖怪の存在や幽霊の存在、そして先祖の存在や神様の存在など常に自分と一緒にこの世にある存在として共に歩んできました。その心は今でも失っておらず、物へも接し方一つでさえまるで生きている人のように接します。特に懐かしい古いものや、出会えた仕合せを感じるもの、そしてご縁が深いものは特に家族や親友のように思えるからです。
人間はかたちなきものへの畏れを失うとき、傲慢になります。
もう一度、伝え聞くむかしの日本のように目に観えないかたちなきものをみんなが畏れるような世の中にならないかと願うばかりです。そしてその心を持った人たちが信じることで、かたちなきものへの思いやりもまた広がっていくでしょう。
たとえ、奇人変人や宗教だと罵られても子どもたちのためにも、私自身が常に堂々と「かたちなきものへの思いやり」をもって一緒に生き切り、これからの未来の純粋な子ども心のためにも見守っていきたいと思います。
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「カタチ」というのは、ひとつの「モノサシ」に過ぎません。しかし、科学至上主義に支配されるようになってから「証明できるかどうか?!」がひとつの基準になってしまいました。信じることで道が開けても、信仰で病が治っても、「証明」できなければ正式には認められません。「科学」の下にすべてがあるのではなく、「科学」を一分野とする上位概念があるというスタンスに立たなければならないのではないでしょうか。
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「死人に口なし」という諺がありますが、目に観えないもの観えなくなったものは、それを捉える受け手の心次第でどのようにもなってしまうように思います。それぞれの価値観でそれ自体をも裁き、信じる信じないと議論するのも不毛のように感じます。どこにもまた一理あるとして何事も分けずに受け取っていきたいと思います。
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私も子どもの頃、TVでゲゲゲの鬼太郎を観て、子どもなりに妖怪の世界観を受け取っていたのだと思います。少し前には、妖怪ウォッチが流行っていました。詳しい内容は分かりませんが、各地に伝わる民話のようにいつの時代にも見えない世界が人を育てることも感じます。今の時代だと映像技術で作り出すことが可能なのかもしれませんが、見えない世界という精神性を大切にしていきたちと思います。
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かたちないものを思う時、一番に思いつくのは心です。自分の心もさることながら人の心は見えません。見えないからこそ畏れ、決めつけず、聴く姿勢が大切なのだと感じます。人の心を感じようとすることの方がある意味で難しく感じるのは、自分でそうだろうと完結できない環境が人に対してはあるからかもしれません。そういう意味ではまだまだ自分自身は見えないものに対する姿勢が浅く、信じたいものばかりを信じていたり、都合の良いものを信じていることがあるのだなとかんじます。素直な心を磨いていきたいと思います。