今回、数日間御先祖様の歴史を調べながら歴史と対話をする歓びと仕合せを感じました。歴史は今につながっていて、本当に大勢の人たちの物語がつながって今の私を存在させていることが分かります。
天祖の頃から、様々な出来事の中でこのいのちや血脈、そして志を繋いできてくださった方々がいるから私も志を持って生きていくことができます。志は歴史を学ぶことで改めて確固たる信念になるように思います。
私も歴史を学ぶことで根とつながり、その養分が自分の心身に流れ始めたような感覚を覚えました。根無し草とは何か、それは歴史を学ばずに自分の代のことしか考えないで生きていることかもしれません。
司馬遼太郎さんが歴史をこう語ります。
『「歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という人生がとこにつめこまれている世界なのです。」と、答えることにしている。 』
自分のいる世界以外に、偉大な世界が別にあると思えることは壮大な浪漫です。そういう何億という人生が入っている世界の中の一つに今の私があるというのは奇跡です。そして、
「私は、歴史小説を書いてきた。もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している」
歴史はまさに御先祖様の存在、両親と同じようにいまでもあたたく見守ってくださっているのです。
その司馬遼太郎さんが21世紀の子どもたちに遺した遺言があります。その一つに、鎌倉武士たちの生き方が書かれています。今回、私も御先祖様のルーツを調べていく中で鎌倉武士の生き様に感動したところが多くありました。素朴で素直ながらも、しっかりと自己を確立していく、その歴史の醍醐味を学びました。最後に紹介します。
『鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、たいせつにしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。人間というのは、男女とも、たのもしくない人格に魅力を感じないのである。
もう一度くり返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分にきびしく、相手にはやさしく、とも言った。いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、”たのもしい君たち”になっていくのである。
以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていく上で、欠かすことができない心がまえというものである。
君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。
同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。』
たのもしい子どもたちになっていくよう願うのは、人間が歴史によって磨かれていくのを知っているからかもしれません。まさに先祖の心、先祖の願いそのものを書いてくれているようで有難い気持ちになりました。
私も子どもたちのために、頼もしい生き方ができるよう自分に厳しく他人には優しく、思いやりと真心、ゆるしの精神を高めて歩みを強めていきたいと思います。
コメント
いつの時代も、子孫が明るく逞しく生き続けていることが、歴史を肯定することであり、先祖の願われることでしょう。そのためには、武士道精神のような一本筋の通った精神支柱を持っておく必要があります。それは、ひとつに「自制心」に支えられているものではないでしょうか。それぞれが自己をコントロールする力を磨き続けることで、すべての仲間が生かし合っている姿を、先祖に見ていただきたいものです。
コメント
かつて存在した先祖の人生に想いを馳せると不思議な感覚に包まれます。そして、今縁のある方々はかつて先祖同士も縁あって結ばれていたと思うと、なお一層強まります。私自身が今日こうして過ごしていることも、いずれ子孫となる存在にとっても想像し難いことになるのだと感じます。ただ、時代が変わっても変わらないものもあると思うと、ご先祖様が遺してくださったものを継いでいけるよう、精進していきたいと思います。
コメント
自分自身のことを見ても、人に厳しく、自分に優しい人格を育てたくはないなと思います。他者への厳しさを愛と捉えるかどうについては、とても高度なことな用に感じます。それは、大前提に他者への優しさが自分自身の中に確率され定着しているかということがあるのではと感じます。
同時に優しさというものも、また難しさを感じます。自分にも優しいというのが、甘やかしになっては、その優しさは本当に人の自立や自己実現を妨げないだろうかと感じるからです。すべては自分自身が自立し、主体的な人生を生きる前提から生まれているのかもしれません。厳しさや優しさの前に自分自身がどんな人生を歩みたいと願い、決め、歩んでいるのか。そこの迷いと向き合う必要がありそうです。
コメント
ある方が今の日本の若者を中身無しの英語ペラペラと表現されていましたが、確かに話す技術をいくら高めても肝心の中身が無ければただそれを露呈するだけなのかもしれません。司馬遼太郎さんをはじめ警笛を鳴らす方々の遣う歴史という言葉は深さが違うように感じます。根があってこそものは育つと思えば、分断された根を今一度自分自身もしっかりと根を張り直していきたいと思います。