人間には我があり、我の強い人であればあるほど自己を中心にして物事を進めようとしてしまうものです。今の時代は競争社会の刷り込みもあり、能力を磨くことばかりに躍起になったり、他人よりも抜きんでることばかりに必死になったりして仲が悪くなっている人たちもたくさん見かけます。
能力があれば価値があり貢献でき、能力がなければ無価値であり意味がないという人もいます。しかしだからといって、能力ばかりで貢献しようと自分の能力を磨くことだけをやっていると、今度は能力がないことが役に立たないことだと思い込んでしまいます。そうすると、自分の能力が活かせるような環境に無理やり周りを変えようとしたり、自分の能力が証明されるような仕事ばかりを増やしてしまったりもします。そうやって能力だけを基準に自他を変えようとすればするほどに息苦しくなって関係が冷えていくものです。
本来は、能力がどうかではなく「みんなが喜ぶか」という基準にしてみるといいのです。それは有能ではなく、有用であることを優先するということです。みんなの役に立ちたいと願っている人は、能力があるないに関わらず役に立つことなら何でもやろうとします。それは言い換えるのなら、みんながどうしたら喜ぶかとみんなを活かそうとします。
この人はこうすればもっと活かされる、この人のいいところはどこかと、周りの長所を観るようになります。そしてどうすればこの人が喜ぶか、どうすればみんなが喜ぶかと全体快適を優先するのです。
私はこの全体快適こそが、本来の有用の価値のように思います。全体最適は能力のことで、全体快適が喜ぶかということです。
「みんなが喜ぶか」といつもみんなで取り組んでいる組織は、明るくなっていきます。人間は能力ばかりを磨いてもそれを使う人がいなければ意味がありません。確かに能力があれば発展しますがそれが仕合せにつながるとは限りません。しかしみんなが喜んでいるのであれば、みんなも仕合せ、そしてその中にある私もまた仕合せなのです。
我が強いというのは、どこかで競争刷り込みや能力刷り込みが深く根付いている可能性があります。もっと我が緩和されみんなとの仕合せが優先されるように、みんなが喜ぶかと生き方を転換してみてはどうでしょうか。
生き方の転換は、自分のことよりもみんなの仕合せ。みんなの仕合せは私の仕合せと、全体快適に生きていくことです。快適な環境や空間、場はそれだけで仕合せの循環を発生させていきます。自分が笑顔になるのもまたみんなが喜ぶからであり、皆が喜べばまた私も笑顔になるのです。
全体快適によって、大人たちの刷り込みを取り払えるように理念を定めて取り組んでいきたいと思います。
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笑顔が溢れている時、きっとその時自分も同じように笑っているのだと思います。反対に皆んなが、むすっとしていたら自分も同じような表情をしているのかもしれません。そう思うと、同じ働くなら誰もが幸せで、喜んでいることがよく、その環境はそれぞれが、そして自分自身が創っていくものなのだと感じます。「みんなが喜ぶか」という軸を大事にしていきたいと思います。
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「自分のことを考えている時間と自分以外の人のことを考えている時間のどちらが長いか?!」で、幸福感が分かれると言われます。それは、チームや集団についても言えるでしょう。「部分最適を集めても全体最適にならない」ように、「部分快適を集めても全体快適にはならない」でしょう。発想の順番を間違わないようにしたいと思います。
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何のために生きているのか。それが日々の自分の行動に現れているのだからこそ、人とのつながりという言葉一つをとっても、誰のためにそのつながりを大切にしているのか。どの軸足で自分は生きているのか。その振る舞いの軸足をいつも改めていきたいと思います。