聴福人の境地

人は自分が大前提として認めようとしない時、他人や自分を何とかして変えようとするものです。そうすると、苦しみが発生し、相手がなぜ変わらないのか、なぜ自分は変われないのかと煩悶するのです。

多様性というものは、本来は「あれもあり、これもあり、みんなあり」だと全てのことを認めてしまうところに存在するものです。それをこうでなければならない、これはやってはいけないなど、何かを悪とし、それは罪だとし、罰を与えなければと裁くときに人は認めることを否定してしまうのです。

この「裁く」ことこそが、認めることの反対であり裁く心の中には罪の意識や善悪理非を自分が勝手に決めるところにあるように思います。本来は何を根拠に正しいとか間違っているとかいい出したのかは分かりませんが、どこかで得た知識によって理想を自他に押し付けるとき人は裁くことをしてしまうように思います。

相手のことや本当のことや真実を確かめる前に裁く心は、先入観や偏見で裁く心であり差別し差別される感情が発生するから受け入れ難く自他を無理にでも変えなければならないと反応するのかもしれません。

イエスキリストは、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」という言葉を遺していますが、この裁く裁かれるという行為そのものがお互いを苦しめてしまうからだと思います。

お互いの苦しみを開放するには、一つは「聴くこと」、もう一つは、「認める」ことが要ります。言い換えれば、「きっと何か理由があるのだろう」と決めつける前に相手に心を寄り添い傾聴すること、そして「それも一理ある」と自分にも相手にも理があるということを認めることです。

この「裁かない」という実践が、お互いの人間関係の感情を緩和して多様性豊かな場を醸成していくのです。私の提案する、「聴福人」の境地はこの聴くと認めるを実践して誰も変えようとはしない、自分も変えようとしない、そのままでいいと丸ごと認めるということを言います。

それを一円融合、一円観ともいい、すべては丸ごと観てみると欠かすことのない丸味を帯びた完全体であるという発想です。しかし実際は、裁く人を前にすると罪悪感や差別感で感情が呑まれそうになります。先ほどのイエスのように、裁くのを止めよう、差別はやめよう、自他を責めずあるがままでなんでもありにしよう、何度も何度も行動を訓練することで次第に感情は落ち着いてくるように思います。

私もまだまだ修行中ですが、余計な知識や先入観、刷り込みを取り払いあるがままの自然体をお互いに気楽に喜べるような仕合せな関係を広げていきたいと思います。

  1. コメント

    自分自身の想いを心に秘め育て続けることも大切なことですが、一緒に働く仲間の初心を聞き誇らしさが増しました。古民家の柱を一生懸命磨き、木目がくっきり姿を現わすように、お互いの初心を磨き合うことは、はっきりと明確に輝きだすことなのかもしれません。この初心を大切に日々振り返っていきたいと思います。

  2. コメント

    「和解する」という言葉がありますが、「(許せない)相手と和解する」というのは、実は、「相手を許せない自分自身と和解する」ということでもあります。結局、解放すべきは「自分自身のとらわれた心」ということでしょう。「裁く」というのは、「自分が認める条件を持ち出す」ということでもあり、つい「自分の価値観」で「条件付きの承認」をしようとしますが、この「持ち出す条件」こそが、自他を縛ることになるのではないでしょうか。

  3. コメント

    人は誰かによってではなく自らで変わっていく必要があると思っています。しかし、この「変わる」というものが「ねばならない」という感覚の時、それは「加」の意識であり苦しいものになるように思います。本来は「減」であり自然の素に戻る意識が本当の「変わる」なのかもしれません。差別心が少なく多様性を大切にしてきた民族であることは歴史が証明しています。今、種子法が廃止され、日本の原点である米の三百種ほどあるイネの品種が集約される危険にさらされていると言われます。土地土地の気候風土にあった種が守られず、経済の利になるもの以外が淘汰される影響は、それだけに止まらないことを感じています。原点を見ていきたいと思います。

  4. コメント

    自分の持っている価値観がいつも今も正しいかと思うと、今という環境が変わっていれば、今にあわせて自分の価値観も本質的である必要があると感じます。価値観とは本質そのものではなく、その時々に自分を本質的に生かそうとする考え方であるように感じていますが、ともすると、自分の価値観に軸足をおいてしまいます。この繰り返しの中で自分自身も変化していけたらと思います。

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