むかしから私たちは信仰心を大切にしてきた民族です。全国各地には神社や仏閣、そしてありとあらゆるところに祠やお地蔵様が祀られているのに気づきます。現在は車中心の世の中でアスファルトが整備され、隅に追いやられ参拝し難いところにひっそりと存在しています。
地域の人たちや関係があった縁故の人たちも、皆で守ろうと声をかけても現在では宗教の自由だといわれむかしから守ってきたものを放棄しようとします。責任感が強い方や、情け深い人が中心になって自費で維持管理しているところも増えているように思います。
地域の神社も、自治会が管理していても最近では若い人たちが減り、高齢化から体力的にも金銭的にも管理が行き届かなくなり次第に荒れてきています。そうなれば鬱蒼とした場の雰囲気にまた人が寄り付かなくなり、さらに参拝する人が減り荒廃します。
そもそも宗教に宗派や教祖が出たのはずっと後の話です。本来、私たち人類は自然に山を拝み、太陽を拝み、海を拝み、天を拝み、誰が教祖でもなく何の宗派もなく、自ずから偉大な見守りに対して自然に頭を下げて祈りを奉げてきました。
世界に宗教宗派が発生し、争い出したのはずっと後になってのことです。その人たちが自分たちの宗派は宗教、教祖を偉大にするために分けて自由を押し付け合っているのは根本的にズレているのです。そもそも自由とは不自由に対しての自由(自分勝手)ではなく、思いやりがある自由なのです。宗教の自由というのであれば、思いやりをもってお互いを尊重して助け合おうとすることを優先する必要があると私は思います。
私の郷里の御地蔵様は、陰ながら管理してお世話をしてくださっている人がいます。祖母の代から、祖母が守ってきたものをその娘がと代々守り続けています。今では地域を離れ遠くにいって若い人がいなくなってきて存続すら難しくなっているといいます。守られていると感じている人は、守り続けていきます。この守ろうとする心の中に、人間本来の深い信仰心が存在しているように思います。
当たり前にあった人類の根本が、便利で歪んだ個人主義によって荒廃してきますが必ず人類に信仰が必要になる時代は回帰します。その時のためにも、先祖からずっと守ってきたものや祈ってきたものを子孫へと繋げることは一生を懸けた一大事なのです。
子どもたちに譲り遺していきたいものをご縁のある身近なところからまた一つずつ増やし守っていきたいと思います。
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「宗教的」な価値観はいろいろあるかもしれませんが、純粋な「信仰心」は人間として忘れてはいけないものでしょう。自分は、いま何によって存在しているか?!何に守られて存在しているか?!そこを間違わないようにしないといけません。人間が偉くなり過ぎないように、慢心してしまわないように、生かされていることへの「感謝」を忘れないようにしたいと思います。
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実家を思い返しても、今住んでいる自宅の家の周囲を考えても、近くにお地蔵さんはいただろうかと考えてしまいます。出張先で時折見かけると、お地蔵さんの笑顔についこちらもニコッとなります。ただ、それも守ってくださっている方がいるからだと思うと、地域の見守りを感じます。地域の中で自分にも出来ることを模索していきたいと思います。
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暮らしが廃れれば信仰も廃れるのは日本の特徴なのかもしれません。誰か一人をあがめるというよりも暮らしそのものに信仰があるのだと思うと、貨幣経済になり、自然との循環から外れてしまうと、矛盾を内包したままのようになるように感じます。そんな中で、保育を見つめると、それは各地域の文化が子どもたちを育んでいて、その文化を深めることや復活させていくことは保育環境を整えることにもつながるように感じます。生活と保育環境とはつながるもののように感じてきています
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日本の神話に稲や麦などの食物の起源について書かれているものがありますが、神の体から生まれたものという意味では、食物はどれもが天から与えられた尊いものなのだと感じます。「いただきます」の言葉一つも感謝のあらわれですが、人間都合で種を操作するようになった今の時代は神への冒涜と言えるのかもしれません。目に観えないもの、物事の背景にあるもの、その信仰心は失わないでいたいと思います。