むかしから「守る」という言葉は、私たちの暮らしにとって欠かせないものでした。何かを守ろうとする人は、守る意志を持っている人です。この「守る」は大切なものだからこそ、いつまでもそれを大切なままにし続けていくという意志があるということです。
その意志とは何か、それは「子ども心」のことです。
私たちは子ども心に憧れを持っています。生まれる前の記憶のようなイメージでもいいかもしれませんが、最初から「これをやりたい」という意志があるように思います。それが時間と共に色褪せていき、何をしたかったのかなど思い出せなくなっていきます。
しかし何かを切っ掛けに思い出したり、ご縁が結ばれて導き出されたりしてその「子ども心」に出会います。その時、守るものの存在に気づきます。その存在は「子ども心」であり、その子ども心を守ることでその人は意志に守られていきます。
人は何かを守ろうとするとき、強く優しくなっていきます。それは、子ども心の意志が目的に向かって助けてくれるからです。守るものが守られ、守られるものが守ろうとします。これが人間の奥深さではないかと私は思います。
一体、天や神様や御先祖様、またお地蔵様は何を守っているか。
その守っているものに気づくことが、道の入り口かもしれません。守られてきたからこそ守りたいと思う心は、恩のことです。恩はめぐり合うことで積み重なり強くなります。その恩を大切に生きていけば、自ずから守られる存在になり守る力を持てる存在になるように思います。
私自身は、子どもの頃から守ってくださっていた存在を守りたいと願っています。
引き続き、子どもたちが安心して自分の天命を全うできるように見守り続けていきたいと思います。
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「自分が愛されていること」に気づいて、初めて「真に愛することができる」と言いますが、「守る」ということにおいても同じで、「自分が守られていること」に気づいて、初めて「真に守るべきものがわかる」のかもしれません。「人々を守るために」「この国を守るために」一体どれだけの力が働いているか?!それを見失わないようにしたいと思います。
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子どもたちのためにと想うと力が湧いてきます。ただ、それは一方的に思っているのではなく、子どもという存在がその想いを引き出してくれていることを感じます。見守り、見守られ、その恩を大切にしていきたいと思います。
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アイヌの人々が「人間」と「神」を平等とし、どちらかのために祈るということをしなかったのはなぜなのだろうかと思ったとき、地球の調和や何世代も先のことを思って祈っていたのかと感じました。今の自分の祈りや願いは人間に偏りすぎていないだろうか。自分に偏りすぎていないだろうか。そんな自分自身の偏りを整えていきたいと思います。
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見守るという言葉も、ただ手を出さずに見ているだけで大丈夫なのかと勘違いされますが、この「守る」という部分に深さがあるように感じています。お天道様が見ているというのも、実際は守って下さっているということなのでしょう。反面、見て気づきはするものの、実際に動き出すのは全体の中の僅か一握りだとも言われます。守られていることを感じながら、本心を大事に行動していきたいと思います。