改めてドイツに来て学校を視察していると、ヨーロッパの子ども観というものを確認することができます。私たちは表面上に現れている今の結果を洞察するにおいて、その根がどのような観念によって支えられているのかを洞察することでその事実を察知することができるように思います。例えば、いくら表面上が似ていてもその根元にある歴史や価値観が異なるのであれば似て非なるものになるからです。
ヨーロッパには、子ども観において日本とは異なる文化を持っており幼児教育や子どもの人権などが用いられて今の姿になっているのも近代に入ってからです。十五世紀頃までの中世ヨーロッパではどこの家でも7歳前後くらいには徒弟や家庭奉公として他人の家にいき、また他人の子供たちを自分のところで受け入れて教育していたといいます。一部の教会や修道院などで教育が行われたのはほんの一部のエリート層だけであり、ほとんどがどこかの家庭に入るか、職人の徒弟になり見習いをしながら生活を成り立たせていたのです。中世までは子どもも大人も関係なく、一緒に生きていくために生活に具体的に参加しなければ生きていくことができなかったのです。
そこから近代に入り西洋の子ども観が変化します。それまでは生活生産の担い手として小さな大人として見ていた子どもの存在が、大人たちによって保護され、愛され、教育する対象の子ども観が出てきます。ここから大人と子どもとの分別がはっきりと切り分けられ子どもは生活の担い手というよりは、子どもは大人とは別で教育をする義務がある存在となっていきます。
確かにむかしの西洋の時代ものの映画を観たりすると、子どもが中心ではなくあくまで「大人たちの生活の中に付属して子どもが労働を通して生活の一部を担っている」シーンを沢山みます。日本においても、むかしは家の中で子どもが一緒に暮らしを担い、様々なお手伝いをしました。同様に子ども観は、生きていく協同体としての小さな大人であったというのは理解できます。
ではなぜ近代に入り子ども観が変化したのか。そこには近代国家における産業革命や、子どもが国家を繁栄させる存在として新たな子ども観の価値観を定義する必要があったからではないかと私は思います。この辺は長くなりますが、現代の国家形成における教育を俯瞰してみると何のために教育があるかを深めれば自明するものです。
本来、人類の原始に戻れば大人も子どももなく男も女もない、すべては一つのいのちとしてお互いを尊重していたという歴史のはじまりが存在します。そこから文明の発展ともに社會が分化していく中で、より自分たちに都合がよい解釈をもって集団の価値観を操作し、整合性を保つためにあらゆるものを分けて整理していくようになりました。
この世界の「子ども観」においても、同様に国家における「子ども像」と、本来の子ども像の間には様々な乖離があります。子どもの仕合せとは何か、子どもの人権とは何か、ヤヌス・コルチャックが子どもの権利条約の中で記した文章には、本来の生命の尊厳と人類の平和のことが記されている気がします。そこには「子どもはだんだんと人間になるのではなく、すでに人間である」と説きます。
子ども観というものを入れ替えられたことなど、今の私たちには気づくことはありません。しかしこの西洋の子ども観が日本に入ってきて、日本の子ども観はどのように挿げ替えられてきたか、そのことを私たちはもう一度、学び直す必要を感じます。
歴史を学ぶということは、どのように価値観が変わってきたかも学ぶことであり、社會を知るというのは、どのように社會を変化させてきたかを学び直すことです。
引き続き、自分の中にある価値観を疑いつつ、改めて原点回帰や初心を振り返って確かな判断基準をもってこれから先の道を修正していきたいと思います。
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戦前と戦後では、価値観が百八十度変わったと言われます。また、いつの間にか、便利さが重宝され、使い捨て文化に変わってしまいました。そのように見てみると、「価値観」というのは、意外と簡単に変わるもののようです。そういう意味では、歴史に学ぶときに、この「価値観」の変遷というものも押さえておく必要があるでしょう。特に「子ども観」「教育観」といったものは、きちんと確認しておくことが大事です。
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江戸後期や明治に来日した外国人から見た、日本の印象を一度まとめたことがありますが、日本の子どもたちは世界の他のどの国よりも大人から大切にされているという、声がいくつもありました。歴史や文化から、価値観を抑え深めていきたいと思います。
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効率優先、能力優先、生産性の優先という社会が家庭や教育にまで影響をもたらすのかと思うと、働き方が与える影響というのは大きいものだと感じました。みんなで一緒にやろうという価値観も、同じことを皆に求めてしまっては効率を優先したり、能力で分けたりという風になりますが、皆が心地よくやれるように一緒にやろうという状態に持っていくには、皆のことをちゃんと聴かないと分からなかったり、皆が本心のままで選ぶことが出来る環境が必要だったりと、色々と必要な人としての心構えが見えてくるように感じます。聴かなければ、一緒じゃないし、言わなければ一緒にならない。大切なのは対話なのかなと感じました。
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子ども観が変化してきたということは、それに伴って大人観というものも変化してきたことを意味するように思えます。大人はこうあるべき、大人だからこれはいけない、などの価値観が走りがちですが、子どもであろうと大人であろうと変わらずに一人の人間として尊重されること、そして学び合えることを大切にしたいと思います。