先日、お会いしたある方から永六輔さんとの思い出話をお聴きする機会がありました。永六輔さんは放送作家、エッセイスト、作詞家、随筆家などいろいろと肩書がりますが、実際には「言葉の偉人」だったのではないかと私は感じました。
美しい言葉を記し、そして使える人はその生き方も美しい人です。そして美しさは本質的であったり、自分らしくあったり、深い愛によってさらに磨かれていくように思います。
この私たちが使う「言葉」は何によって磨かれていくかということですが、それは人生体験の質量であることはわかります。自分の実体験を深く掘り下げて、自分が体験から学んだことが使う言葉に顕現してくるからです。
例えば、傷ついたり辛い思いをしたり苦労をした人が似たような境遇にある人に共感して語る「言葉」はその人を救い導く含蓄があります。それは本人が人生で真摯に向き合って心を痛めたからこそその痛みが分かる人になるのです。
純粋な心を持っている人は、その純粋な心がむき出しになっていますからその分、無造作に傷つき痛むものです。しかしその心の傷や痛みを持ったまま前に歩んでいく人はその純粋性が磨かれてその人の深い魅力が輝いていくものです。
人間はどれだけ自分のこととしすべての物事を捉え、体験していくかで他人事ではなくなります。そうやって体験したことを一つの言葉にしていく、言葉に籠めていくことではじめて心が言葉になります。音楽にある詩や歌には、その「言葉」を伝える力があるようにも思います。
その言葉は、その人が大事にしてきたもの、大切だと思っていることが入っています。だからこそ、何が大切か、何が大事かといつも自分から発する言葉を大切に遣っていくことが重要なのかもしれません。
永六輔さんの遺した詩や言葉は、今でもたくさんの人たちの心支えになっているように思いました。
最後にいくつかその言葉を紹介します。
「自分が傷つかないで、怒ったり、叱ったりする人がいるけど、自分も傷ついて説得力がつくんです。」
「目を見つめて、一緒に笑い、一緒に泣く気持ちがないなら、他人の話を聞かないで」
「生きているということは、誰かに借りをつくること。 生きていくということは、その借りを返してゆくこと。 誰かに借りたら誰かに返そう。 誰かにそうして貰ったように、誰かにそうしてあげよう。」
「叱ってくれる人がいなくなったら、探してでも見つけなさい 」
「他人のことが気になるのは、自分が一生懸命にやっていないから」
「人の死は二度ある。 最初の死は、肉体の死。 でも、死者を覚えている人がいる限り、その人の心の中で生き続けている。 最後の死は、死者を覚えている人が誰もいなくなったとき。 そう僕は思っています。」
私も言葉を大切にして、永六輔さんのように生きる体験を真摯に味わい、人々の心の痛みがわかる自分らしい言葉で記憶に遺るような生き方を目指していきたいと思います。
コメント
これまでのどれだけ人から掛けて頂いた言葉に救われただろうかと思います。今でも心の支えになっている言葉で何度も奮起し、本当に自分は恵まれていると感じます。時に人を言葉や態度によって傷つけてしまうこともありますが、心の状態が言葉に表れると思うと、もっと丁寧にそして真剣に学んでいきたいと思います。
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その人にかける「言葉」は、あらかじめ用意しておくものではなく、その人を前にしたときに、その思いやりを通して自然と出てくるものである、と言われます。「使う言葉」には、その人の経験から得た智慧や寛容さ、あるいは磨いた人格といったものが滲み出てきます。表情が人生をごまかせないように、言葉も自分をごまかせないということを自覚しておきたいと思います。
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出会った人の人生の中に、記憶の中に、自分自身の発したどんな言葉が残っていくのだろうと思うと、言葉と態度に裏表のない生き方をしていきたいなと思います。そして、改めて「遊び心」のある言葉づかい、態度。生き方。そんなことを大事にしていければと思います。
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一つの物事に対する表現がとても豊かだったり、語彙が豊富だったりと、日本語という言葉そのものが非常に美しさを秘めた言葉だと感じますが、些細な表現の違いも言葉として表現されるのは、日本人の美意識や繊細さが生み出したもののようにも感じられます。言葉よりも先にあるものを大事にしていきたいと思います。