先日、広島で人間幸学研究所の和田芳治さんと奥様にお会いするご縁がありました。逆手塾という塾も開催しており、かねてよりお会いしたいと思っていた方の一人です。お話をお聴きしていると、どのお話も本質的で時代が変わっても大事な本筋を見失ってはならないことを随所に語っておられたのが印象的でした。
和田さんは里山の守り人として、里山から本来の人間として生き方やあり方を発信されておられました。一周遅れのトップランナーを自称され、時代が時代ならまさに最先端の取り組みを行っておられます。
そう考えてみると、世の中の主流は大多数の人間が参加している価値観のことで傍流というのは時代の流行に左右されずに本筋や王道に取り組まれている方のことを言うように思います。言い換えるのなら、それが本流というものでしょうが不易と流行がある中で本来の普遍的なことに取り組んでいくというものこそが人間の原点の追求かもしれません。
人間は多様性がありますからそれぞれいろいろな人がいますが、自分の価値観で理解できないものを最初から批判したり非難することは度量が狭いように思います。確かに大勢の価値観の中に入っていくことは安心かもしれませんが、自分で考えて気づいたことや体験した学びを深めていく中で得られた新しい価値観を貫いていくということはなかなかできないものです。
他の人と異なることを信じていく生き方は、正解を求める生き方ではなく仕合せを求める生き方です。正解に安心する世の中か、仕合せに安心する世の中か。本来、人間が尊重されている世の中とはどういうものか、人間が物のようになっていないか、色々と思い当たる話ばかりをしていただきました。
特に印象に残ったものは、「面白がる」というお話です。
今の時代はマジメな人が多すぎて、楽しさを選ぶよりも単に合わせる人の方が増えているといいます。和田さんはなんでも遊び半分だといいます。遊んでいるだけではダメだという人がいますが、本気で遊んでいる人は楽しんでいる。楽しんでいるだけで学んでいないという人もいるけれど、楽しいだけで学んでいるとも言います。
やらされてやるのは楽しくないからこそ、なんでも自ら「面白がる」ことが主体性になっていくともいいます。
これは私の体験からも同様で、なんでも面白がっている人は仕事も生活もすべて楽しくなっていきます。その逆に面白くしない人は、なんでも義務になりなんでもしなければならないというように執着ばかりが増えていきます。
和田さんは、自分が楽しいからこそ周りを楽しくすることができる、自分が我慢して周りを楽しくさせてもそれでは楽しさをわけてあげることができないともいいます。自分がうんと楽しんでいるからこそ、その楽しんだ分を人に与えることができるからともいいます。
まさに、自他一体の楽観の境地です。
和田さんの逆手塾はそんな生き方を学ぶ場所であり私たちのこれからの変化にも欠かせない大切なご縁になりました。これからも引き続き、楽しく学び直していきたいと思います。
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草刈り一つとっても、ただ淡々と黙々とでは体が持ちません。ご飯作りやスイカ割りなど、いろいろあってみんなが楽しめたり、そこに体の疲れ以上の充実感を感じます。子どもたちがいろいろなことをやりたがり、疲れてコロッと寝てしまうのも楽しんでいるからだと思うと、自分自身も面白がって取り組むことを大事にしていきたいと子どもたちの姿からも感じました。
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「正解を求める生き方、働き方」をしている人は、どこかに「正解」があって、自分は未熟だからまだその正解に至っていない。だから、その正解に一歩でも近づこうと努力し続けています。しかし、この「正解思想」は、「基準が世間や他人にあって自分にありません」から、常に「不安」が付きまといます。この不安の中を生きている限り、「面白がる」ことは出来ません。やはり、「正解」より「しあわせ」や「楽しさ」の価値を高めないといけないようです。
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人間幸学研究所の「人源発掘ひめくり」に『年中夢求 生涯夢職』などの言葉がありました。ちょっとした言葉遊びのようですが、よく観ると非常に奥深く、きっと自分ではわかり切れない程の深さでこれらの言葉を遣っていらっしゃるのだろと感じます。心に余裕をもって物事の中にある楽しさの方をいつも観ていきたいと思います。