昨日から北京に来ていますが、街中は人々の活気や躍動を身近に感じます。特に貧富の差というものをまざまざを感じられ、走っている車も超高級車から人力の手押し車まで幅広く、豪華な超高層ビルがあると思えば裏路地に入れば年代ものの小屋のような建物があったり、また別荘地のようなエリアには一戸建ての庭付きの家があったりとお金さえあれば何でも可能かのような印象を受けます。
北京では出稼ぎ労働に来る人たちが都市部に集まってきます。その数は数百万人にも及びますがそのほとんどは家賃の高い地上ではなく家賃が安い地下に居住しているといいます。この中国の貧富の格差が拡大する一方で、約1%の人が全国の1/3の財産を占めているともも言われます。
日本にもアメリカにも資本主義経済によってそのような格差はありますが、目に見えて明らかにこれだけはっきりと差が日常的に明らかになっていると否応なしに気になってしまうようにも思います。非常に急速に近代化、現代化が行われてきて大国になった歪みというものはどうしてもその貧富の差を拡げてしまうように思います。
歴史にも、急速な発展と成長によって農村部や都市部、そして権力が一カ所に集まるのは歴史の事実でもあります。私は日本が戦前戦後の急速な復興や発展を体験したことがありませんが、このように隣国が発展して様子が変わっていくのを垣間見ると経済成長というものの本質を学び直した気もします。
人間とお金というもの、そのバランスが崩れることで貧富の差はますます拡大していきます。何のために働くのか、成熟してきた社會においてはその問いが一部の経営者の間では議論されはじめてきている兆しもあります。
しかし大多数の社會においては比較競争の中で、ますますお金や物を中心に人間の不安な心理の側面が現れてきます。どのようにして人間を成長させ続けることができるか、孔子はどれだけ人類の先を読み、それを論語で語ったのであろうかと思いを馳せます。
引き続き、この国の歴史を省みながら未来の行く末を感じてみたいと思います。
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何かと比べ始めるときりがありませんが、分相応というか、これで十分と思えば変は僻みも生まれません。ただその中で貧富の差で大変な思いをしているのが子どもたちだと思うと、どうしたら安心して暮らせる社会を創れるのだろうかと考えてしまいます。国は違えどカンボジアを見て何か自分に出来ることはないかと思ったように、どの国でも同じようなことが起きていることを感じます。今行なっている一つ一つがその解決にも繋がると信じて、実践を積んでいきたいと思います。
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「平等」というものを求めると、「低いレベルの平等になる」と言われます。一方、「自由」を求めると「格差が生じる」と言います。また、「ものの豊かさ」は確かに活力を生み出すでしょう。しかし、「欲」を求め始めるとキリがありません。果たして、国家として「どんな国」を目指すのか、「どんな国のカタチ」を目指すのか?!かつての儒教の国はどんな未来を選択するのかを見届けたいと思います。
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文章からでも十分に伝わってくる貧富の差ですが、人々の幸福感はどうなのだろうとそちらの方が気になります。「貧乏人はあっても貧困は存在しない」と外国人の目から見えたかつての日本から見れば、今の日本もまた省みるものがあるように感じます。何を不足と感じ、何を追い求めていくのかを見誤らないようにしたいと思います。