人は自分自身に自信を持つことで安心することができます。他人からの評価を基準にしていたら不安はいつまでも続き、自分自身のことを自分で認めることではじめて自分というものの存在を信じることができるようになるものです。
人間は幼い頃からの育った環境が影響して、自分自身との関係が出てくるものです。本来は自分のままでいい、自分らしくていいものが差別や偏見によって歪められていくものです。
いつまでも自己否定したり自己肯定感が低いままなのは、自分自身に差別や偏見の眼差しがないかをまずチェックする必要があります。他人から馬鹿にされたり、他人から揶揄われたり、蔑まれたりしたことが同様に自分も他人に対して無意識にそういう復讐心から偏見が入っていたりするのです。
自分に自信がないと自分の自信を持とうとすることは大切ですが、そのためにまた評価を求めてしまうのは自分自身の偏見がそうさせているかもしれないということです。思い込みの強い人や、決めつけの強い人の方が仮初の自信を纏っていることが多く、本来の自分らしくや自分のままでいいとは思っていないことが多いように思うのです。
誰しも人間であり、その人はその人のままが価値があると自分の偏見や価値基準なしに思えているかどうか。その観る目が、鏡のように澄んでいるのなら丸ごとの自分自身のこともそのままに認められるはずです。
自分のここは認めるけれど、これは認めない、決して見ようともしないでは向き合うことができないのです。人は自分自身と正対して、自覚して、自認してそれも自分だと認めるとき、自分というものの存在を感じます。
そのうえで、自分自身と折り合いをつけながら対話をしながら協力して生きていくとき自然体になっていくのです。自然体の姿は、差別や偏見のない姿になっているといっても過言ではありません。
自己肯定感が低いと不平不満を言う前に、自分の偏見や差別をなくそうと自他のことをもっと認めて本質を深めて人間を知ろうとしていくことが大切なのかもしれません。
すべての生き物にはいのちがあり、そのいのちは常に平等で普遍です。違いを認め合い、異質なものを受容するとき自分のことも愛せるようになるのかもしれません。
子どもたちが安心してあるがままに楽しく豊かに生きる社會を築いていきたいと思います。
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自己肯定感が低い人は、他人肯定感も低い可能性があるでしょう。他人を裁く人は、その返す刀で自分を裁きます。この「裁き」というのは、自分のなかに「条件付きの合格基準」を持っているということでもあります。この「自分が持っている条件」というのが、結構怪しいものです。ここが歪んでいると、世界を歪めて見ることになってしまいますから注意したいものです。
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1日1日の中では大きな変化は感じずとも、積み上げてきたものを振り返ると自信になります。例えば、メルガマ一つとっても配信を開始し1年ちょっとですが、誰と比べるものでもない唯一無二のものであり、見返しているのも自分が一番しているのではないかと感じます。何が自分にとっての自信になるかわかりませんが、一つ一つ積み上げていくことを大事にしていきたいと思います。